ずっと生きづらかった私。
無理をしないと”普通”になれなかった私。



両親とぶつかるたびに
私がこんな風に”歪んで”しまったのは親のせいだ。
この環境の中で育ってきたから歪んだんだ。
穏やかで素直な私、私が在りたい私ではいられなかった。
私は”歪む”ことで生き抜いてきたんだ...。って
自分をかばいたくなる。




いつも寄り添ってくれて
笑顔を向けてくれて
暖かく包み込んでくれて
もっと私に目を向けてくれる
両親でいて欲しかった。
そんな両親だったら私はどれだけ
嬉しかったかな、幸せだったかな。
歪まないでいられたかな...って
悲しくなる。




>いつも寄り添ってくれて
笑顔を向けてくれて
暖かく包み込んでくれて
もっと私に目を向けてくれる
両親
私の中の理想の両親像。





でもそんな理想の両親像を持つ自分に気づいた時、
私の中の理想の両親像ってなんだろう?
どこから来たんだろう?ってふと思った。





それはきっとテレビで見るドラマの世界や
幸せそうに見える他の家族や
傷ついてきた私が頭の中で作り出した
こうあって欲しいという願い、イメージ。




両親が仲良しで
子供のことにすごく親身になって
笑顔で食卓を囲んで
おやすみとかおはようって挨拶を交わして。
そんな”幸せそうな家族”が理想だった。





私にもっともっと親身になって欲しい
愛して欲しい
ってずーっと願ってた。





でも、私が描く理想の家族像は
本当に存在するのかな...?!
何の問題もない完璧な両親は存在するのかな?!




冷静に考えた時
もしかしたらそんな”理想の家族像”
”完璧な家族”はいないのかもしれないな...って
はじめて”現実”が見えた気がした。





私の思う”理想の家族像”。

それでこそ幸せだと言えて、
愛されている証であると言えて、
それが私にとって理想の愛され方で。

その望みに沿わなかったことで
私は『愛されていない』
と思い込んだのかもしれない。




本当は『愛されている』のだけど
理想とは違っていたから
愛されていないと思ったのかもしれない
信じられなかったのかもしれない。




私は私の理想から少しでもズレた
現実を目の当たりにするたびに
傷ついてきたのかもしれない。





確かに。
両親の態度や言葉に
傷ついてきたことは事実、
事実なんだけど。





でも実際
本当に愛されていなかったの?
と問いかけたら...。

本当は愛されていたのだろうなと思う。
”両親の愛し方で。”





完璧な親というものが
私の中で作られたイメージなのだと気づいた時、
私は”愛され方さえも”
どこかの誰かと比べていたんだって気づいた。




意識も目も外側を向きっぱなしだった。






いつも
愛しているよ
という言葉や
愛しているよ
と感じられる行動が
欲しかった。

じゃなきゃ不安だった。
目に見えるものが欲しかった。




たくさんのコダワリにとらわれてた自分に
気づいた時、
愛されていないと決めつけて
そこにこだわってた自分にも気づいた。




あの時もあの瞬間も
私は愛されていたのだとしたら...
受け取ってなかったのは私。




”理想の愛され方”じゃないと
愛されていないと信じなかったのは私。






これはすべてのことに対する
『愛され方』に繋がっている気がする。





本当はずっと愛されていたと気づいた時
本当はずっと愛されていたという記憶に書きかわる。




そして私自身が愛されている、
愛される存在であることを思い出す。