「みちおほち」は
宇宙をあらわす仏教語、

三千大千世界の「三千月千」のこと。



良寛の短歌の中の造語

あわ雪の中に 顕ちたる(たちたる)三千大千世界(みちおほち)
またその中に沫雪(あわゆき)ぞ降る 




南方熊楠(みなかたくまぐす)は
三千大千世界のことを

無尽無究の大宇宙の大宇宙の また 大宇宙 を包蔵する 大宇宙 

と表現。



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心に響く99の言葉
興福寺貫首 多川俊映 著 より 部分引用

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“ 言葉 ”というものは なんと美しく 
想像を広げるように 
“わたし”の目の前に現れるのだろうかと
喜びを感じる。




例えば

 “ 祈り ”  一つとっても
言葉で限定してしまうと

境界を生み  枠を作り出す。




かれこれ 10年前ほど
◆慈悲の瞑想◆の言葉を唱えていた時期がある。


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「慈悲の瞑想」



私は幸せでありますように

私の悩み苦しみがなくなりますように

私の願いごとが叶えられますように

私に悟りの光が現れますように



私は幸せでありますように(3回)

※こころの中で

「私は幸せでありますように」と繰り返し念じる。



私の親しい生命が幸せでありますように

私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように

私の親しい生命の願いごとが叶えられますように

私の親しい生命にも悟りの光が現れますように



私の親しい生命が幸せでありますように(3回)

※こころの中で

「私の親しい生命が幸せでありますように」と繰り返し念じる。


生きとし生けるものが幸せでありますように

生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように

生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように

生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように



生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

※こころの中で

「生きとし生けるものが幸せでありますように」と繰り返し念じる。


私の嫌いな生命も幸せでありますように

私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように

私の嫌いな生命の願い事が叶えられますように

私の嫌いな生命にも悟りの光が現れますように



私を嫌っている生命も幸せでありますように

私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように

私を嫌っている生命の願い事が叶えられますように

私を嫌っている生命にも悟りの光が現れますように



生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)



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昔は この
「嫌っているものたちへの文言」に
唱え続けても ずっと違和感があった。


けれど 年月を経て

清水先生からの教えを学び
生きる上で人々と関わり経験を重ねるうち

だんだん腑に落ち、
自分の身に理解を得てきた。






今やこの文言を唱えなくとも、

“ 祈り ” とは
 一つの限定された対象、まとまりへではなく、

境界や枠を持たない
この「三千大千世界(みちおほち)」に繋がる 

(自分と反りが合わない人たちや 
意識が及ばぬ遠い遠い存在達へなどへも)

壮大な世界へ届けられるもの(自然に発動する、染み渡ってゆくもの)であろうと
理解出来る。




言葉とは 
無くては互いが理解を深められない
必要なものではあるが、

不自由さをも 同時に感じさせる。




どうしても
言葉に表すことで、

想像を広げられない者は
そこに留まり 
その先の世界を(想像すること)観ることを
困難にさせる。   






想像しよう。




キミの その “ 想い ” とは、

その想いから生まれる “言葉 ” や “行い” とは

キミを含む 
大きな世界を豊かにさせるものですか?









* 誤解の無いように🎵

豊さとは 
誰かの言動や行いに ただ従うことではありません。

自分が我慢したり、
黙って居れば 周りが豊かになる。
…ということでもない。




自分が違和感を感じたなら 、
それを言葉にしたり、行動出来ること。




それが  “ 自分の感覚 ” を信頼し、素直に、
“ 言葉や行い ” に表現出来ていることに繋がる。

(これが 自分の感覚をきちんと自分が感じてあげることが出来ていて
それを自分を含む世界に活かせていること)




自分の意見や 感じたこと、考えられることを
に伝えることは

 誰かを否定したり、混乱や破壊を生むためのものでもない。






なんのために

感じることが出来る

感覚機能があるのだと思う?