読書記録をブログですることにしました。
忘れっぽいですし、書くことで要約と整理ができるかと。
ほんと、自分のためのメモなので
お目汚し、失礼いたします
44才になって読んだ本はこれで2冊目だけど、1冊目はフライング感があるので、ここから。
宮台真司 著
「14才の社会学」
初読はおそらく8年前・・・読み直しは三回目です
実際の本に興味がある方は、こちらからどうぞ!
==========================
要約
<自分>と<他人> みんな仲良しじゃ生きられない
昔は「みんな」という言葉を誰から誰までを指すのか、イメージしやすかった
→「みんな」の顔が見えていたから
→今はみえないからイメージしにくい
なにが「みんな」「公的」
→2つの条件
①それに関係する人たちの【合意】があること
誰が『われわれ(みんな)かということについて、僕も君も合意していなければならない』
②コミットメント(熱心な関わり)
①の上で、『われわれ(みんな)が生きていくためにこれが大切なんだ』というコミットメントがないといけない
環境問題を「われわれ(みんな)」の問題として引き受けられるか
→死んだ後の子孫も「われわれ」とイメージできるか。その子孫も含めた「われわれ」が生きるために「環境問題は重要だ」と思えるか
EX) 環境ラディカリズム
人間視点でなく環境視点。人間多すぎ、死んだ方が環境に優しい
幸せにいきるためには?
→条件がふた
①「自由」であること=選択肢を知っていて、それを選べる
②選ぶ能力がある
今の環境がつらいのは誰のせい?
→3つの考え方
①環境を作った大人たちが悪い
いつの時代もそんな大人はいる。自分もならないとは限らない
②環境をつらいと感じる自身の境地が問題
ひどい環境の時、それを作った悪い奴はなんとかしなきゃいけない
③環境を変えようとしない自身が悪い
↓↓↓
選択肢を「ちゃんと」知っているか。それを「選ぶ能力」はあるか
それ次第ではとんちんかんに「他者のせい」にしかねない
尊厳には「多様性」も必要
尊厳=自尊心・自己価値
自分がそこにいてもいいんだ、自分は他者に受け入れられる存在だ、と思えること
→「自由」と「尊厳」の関係
社会や文化により、生きやすい生きにくいは違う
Ex) 人により選択できる能力は違う・宗教による社会の違い
↓↓↓
「自由」だけではみんなの尊厳は支えられない
みんなの-より多くの人の-尊厳を支えるには「自由」と「多様性」の両方が必要
「尊厳」と「承認」のメカニズム
②他者が認める
(「承認」)
①「試行錯誤」する ③「失敗しても大丈夫」
(「自由」) (「尊厳」)
ただし、「みんな=承認をしてくれる人」の定義がわからない今、「尊厳」は望み薄
現実には3タイプの人間がでてくる
①AC 承認してほしいあまり、周りの期待に反応しすぎる
②ひきこもり 承認してほしいあまり、試行錯誤に踏み出せなくなる。「尊厳」に問題があるので「自由」に見放される
③承認されない環境に適応してしまい、「承認?なにそれ?」と他者との交流と結合した「尊厳」を投げ出す
↓↓↓
①②はまだ他者が必要。③がこわい
③「脱社会的存在」
※人を殺さないのは、殺せないから。殺せないように育っているから。ルールはない。
社会には「仲間を殺してはいけない」「仲間の為に人を殺せ」というルールはある。
→③は他者の存在が無関連。「尊厳」が他者を経由していない
30年代ブーム
→「みんな」を求めている
「試行錯誤」は「共通前提」に支えられている
変化した社会はもとに戻らない
→「みんな」がない今、みんな仲良しはありえない。自分に必要な人間とだけ、仲良くすればいい。
自分に「価値がある」と思えるか
→小さいころちゃんとみんなに「承認」されていれば、大人になって承認を求めない
しかし、多くはそう育っていない
「自分はOK」と思えるために
→「これさえあれば尊厳OK!」なんて魔法はない
他者を前にした「試行錯誤」で少しずつ得た「承認」が、「尊厳」つまり「自分はOK」の巻加工を与えてくれる。
↓↓↓
それが力になってもっと広い世界に踏み出せる
<社会>と<ルール>「決まりごと」ってなんであるんだ?
ふみ切り事件
→2008.2月
畑に農作業に行くために、踏切を作ってほしいと10年JRに要求し続けたじいちゃんが、とうとう自分で踏切を作って逮捕された事件
マナー向上員制度
横浜市営地下鉄グリーンライン。マナー違反は注意したいけど、注意しづらい。それをサポートするマナー向上員が巡回
👆なぜ取り上げた?ふみ切り事件
→ふみ切り事件:昔は共通認識があった。「そういう事情なら、まぁ今回は仕方ない」となったのでは。
今は、SNSの発達もあり「そんなのを許してみんながやったらどうする」と、共通認識を持たない人が異論を唱える。
「なぁなぁ」じゃあ済まなくなった。=共通の前提が怪しいから、共通のルールを作るべき。事情はどうあれルールを作るべき。
↓↓↓
この「ふみ切り事件」はまさに、「共通の前提から、共通のルール作りへ」という社会の変化を表すもの。
???みんなの「共通感覚(ホンネの共有)」をたよりに
「ルールはルールだけど、いろんな事情もあるから現実的にやろう」と
「事情はどうあれルールはルール。どんな場合もルールを当てはめて、白黒はっきりつけよう」
どっちがいい???
👆なぜ取り上げた?マナー向上員制度
→アンケート。マナー違反は反対、でも「注意する」は16%.、昔より減っている。
「共通感覚」が薄れ、「自分が思うように、みんなも思うはずだ」という支えがなくなった。
→注意した時、相手に共通認識がない為引き下がらない
→ケンカになった場合、みんなは加勢してくれないかもしれない
→車内の人に迷惑をかけるかもしれない
↓↓↓
説教するのが趣味なんだ、自分の強さを自慢してるんだ、神経質、自分の趣味でやってる・・・
ルール以外で世の中が良くなる可能性
→現在:「共通認識」がくずれて、ルールでしばる方向にすすんでいる
???ルールで縛る以外の方法もあるのでは???
AAA考えるべきは、「僕たちが幸せに生きる社会とは、どんな社会なのか」を、考え、議論を重ねることが大事
EX)
・議論を重ねれば、合意できるかもしれない
・合意できなくても、どこで意見がわかれるのか、グループ分けができるのか、見えてくるだろう
→そうすれば、グループごとにすみわけようとか、グループ間の違いをこう調整しようなど、話を進める事ができる
ところが、今の日本社会は議論を尽くす方向に向いていない
「共通感覚」がくずれて不安になった人々が、単に厳しくルールを当てはめることや、ルール違反に罰を与えることに関心を向けがち。
制服
「行為功利主義」と「規則功利主義」
「卓越主義的リベラリズム」
大道珠貴×宮台真司
「誰かの言葉が欲しい時、手にとってほしい」