朝井リョウ『正欲』を昨日から読み始めた。あと三分の一ほど。
ぼくは16歳ごろから対人恐怖症、視線恐怖症を発症して、18歳のころに初めて精神科にかかり、そのときに離人神経症、失感情症、アンヘドニア、現実感喪失と診断された。その当時、この聞いたことのない病名についてネットで調べたり、本に当たってみたりしたけども、治療法が見つかっていないということだけ分かった。特に離人神経症の、現実感が失われるという症状がとてもつらかった。現実感がなくなるというのは周りの人に訴えても、気のせいだとか考えすぎだとか言われるだけだった。じゃあ自分がこんなに実際に苦しんでいるのはなんでなのか。
自分について、自分の苦しみについて周囲の人に理解してもらうことは、一度諦めた。
障害者枠での就労を目指したこともあった。就労を目指すにあたっては、自分の病気について理解を深める必要があるのだと。自分の病気についての理解を得るということは、簡単なことではない。これまでに、16歳のころに森田療法の本に出会い、大学受験の勉強と並行して森田療法の勉強をして、大学に入ったあとは森田から離れて村上春樹の小説を読み、河合隼雄の紹介するユング心理学を勉強した。
大学を中退したあと、西田幾多郎の哲学に出会い、同時期に精神病理学者の木村敏の著書に出会い、木村敏、ミンコフスキー、ブランケンブルク、ビンスヴァンガー、レインといった統合失調症の精神病理学を勉強した。その当時は、木村敏がぼくの感じている苦痛や違和感を文章化してくれているように思った。それで四年ほど、木村敏を中心とした精神病理学の本の理論に籠城した。
その後、西田幾多郎のつながりで鈴木大拙に出会い、自分の苦痛や違和感は仏教の視点から説明ができるのではないかと思った。
いま思い返すと、ここには自分のことが書かれてある、と感じられる本が何冊かある。木村敏、村上春樹、西田幾多郎、ミンコフスキー、ドストエフスキー、井筒俊彦、鈴木大拙など。
ぼくが一度現実感喪失の状態に陥り、離人症と診断され、時折これ以上ないといえるほどの現実感や喜びを経験してきたことは、哲学、文学の本を読んでいるとセオリーのようなものとして度々出てくる。例えばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、井筒俊彦『神秘哲学』、西田幾多郎『善の研究』など。これらは文学、哲学の名著とされているものなので、ぼくの経験したことは、理解を絶したような無意味なものではないのだ、といってもいいのかもしれない。
マイノリティであることは確かかもしれないけども、少なくとも上に挙げたような本にはぼくの経験が書いてあるので、そんなに孤独は感じない。上に挙げた本に出会うまでは、こんな経験をしているのは世界に自分ひとりだけではないのか、と思いこんでいた。自分自身に、「了解不能」というレッテルを貼っていた。でも、上に挙げた本に出会ったことで、自分は了解不能ではなく、十分に了解可能なのではないかと思うようになった。