自分の問題は、あらゆることが面倒くさいということだと思う。例えば、ギターにしても、何か曲を練習する気が起きない。なぜかというと面倒くさいからだ。やる気がない。中学一年のときにギターを始めたけれども、高校あたりまではギターを練習するのが面倒だと思う暇もなく、やりたい曲がたくさんあったし、こんなギタリストになりたいという憧れが明確にあって、ひたすら練習しまくっていた。
大学のときは、ギターに対する情熱のようなものを失ってしまったと感じて、その一方でドラムに対する憧れを抱くようになり、大学三年のときにギターからドラムに転向した。それで24歳のときに統合失調症になり、ドラムに対する熱意もまったく失ってしまった。21歳ごろから次第に、楽器に対する熱意を徐々に失っていったように思う。
自発性の欠如というふうにいえると思う。特に楽器の演奏は、自発性なしに成り立たない。これは楽器をやっていれば考えるまでもなくわかることだし、だからこそ、24歳のときに楽器を完全に諦めた。そのあと、木村敏の統合失調症の精神病理学の本を読むようになり、音楽が成り立つためには、自発性が必要不可欠であることを確信した。
そして、狭義の音楽だけでなく、もっと意味を広く取って、表現活動だとかコミュニケーションについても、自発性が必要だということもわかった。わかったというか、それは統合失調症になったときから、感覚的にわかっていたことで、木村敏の本を読んで、その理解への言語的、理論的な裏づけを得たといったほうがいい。
つまり、統合失調症になったことで、自分は音楽の演奏もできなくなったし、音楽そのものに触れることもできなくなったし、人間に触れることもできなくなったし、世界そのものに触れることもできなくなった。これは24歳のときに感じていたことだ。当然、その当時は絶望していたし、自分はもう普通の人間のように生きていくことはできないのだと思った。
今も音楽はできないし、根本的に、自分は人とコミュニケートできないと思っているし、そのあたりの理解は変わらない。でも、音楽を聴いていくらか楽しめるときもあるし、それは言い換えると世界に触れているということ、人間に触れることができているということではないか? つまり、自分なりの限定されたかたちで、自分は世界、他人とコミュニケートできているということだろう。多くの人と同じように、コミュニケートできているとはいえないけれど。
上に書いてきたような、面倒くささだとか自発性の欠如は、精神科的には、自閉というふうに言われているらしい。
それで、面倒でも自分でやらないといけないことが多い。そういったことも、疲れやすさの一因なのだと思う。とにかく疲れる。
今気づいたけども、パソコンに向かっていると時間が速く過ぎていくように思う。パソコンでYouTubeを見たり、こうしてアメブロで記事を書くのが、自分には合っているのだと思う。パソコンは大事だな。

