秋雨と時事について~安保と難民と~ | のぶりんのマガジンラック

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いつもは普通のサラリーマン。しかしそれは世を忍ぶ仮の姿。ひらめきと思いつきのグダグダブログ。良かったら立ち寄ってくださいませ。

最近よくテレビやマスコミで話題になっている「安保」。

堅苦しい話しはきっと学校や職場、近所や友達の間の話題としてはいまひとつそぐわないデスよネ。

そんな中、ただの覚えとして、こんなど素人のブログですが「自分の中である程度考えをまとめておきたいなぁ」と思いたっただけです。('-'。)

戦争反対と結び付き、広がりをみせているデモ。
基本的にその思いは純粋で正しいと思うのですが、「戦争をさせない」という言葉の端々に、何か違和感が・・・。

おそらく戦争の原因は「世界にはびこる貧困」。

日本人は総じて「搾取する側」で、高水準生活レベルを享受。

いくら日本の社会の先行きが心配だといっても、たったの1時間、適当に働いただけで「ビックマックが2個買える」環境。

水道や電気が当たり前のように使え、車も各家庭に複数あったり、携帯やスマホに優先して費用をかける事ができる。
こんな環境は滅多にない。

デモに参加する自由はある。
キラキラした目を見たところ正義感や強い意志、そこに生きがいも感じているものと思う。

ただし、参加することにより、「誰か」に責任をおしつけ自分自身の「免罪」を心の奥で願っているとすればちょっと違う。

仮にそうであれば、デモは単なる批評家の寄せ集めとなるのではないか。

また、誰かの揚げ足をとり、指摘し合い結論を問いただし、自分が優位につくことだけを急ぐ。
それが目的の自己満足に陥っていないか…。

先の戦争も「誰か」が勝手に推し進めたわけではない。

仮に戦争回避するため、「鎖国をして全国民の生活レベルを江戸時代に戻して、しばらく耐えるべきだ!」と訴える人がいたとしても誰も投票しないだろう。

個人レベルでも生活レベルを落とす考えはまず、ない。

例えば彼氏や結婚相手に何を求めるのかとか。
誰も生活レベルを下げたいとは思わないし、幸せの大きな要素の一つは生活の向上だと普通に考える。
一度ウォシュレットを使ったらもう戻れないし・・・。
少なくとも自分や家族など親しい範囲においては特別な日にA5ランクの牛肉を食べて舌鼓をうつくらいの贅沢も生活の彩りとして許されると考える(皆どれだけ沢山の穀物が牛の生育に使われたのかはその時点では想像などしない)…。

またフェアトレードを常時利用できるのは現状「一部の金持ち」。
まさに「免罪」のため・・・。
私達はコンビニの100円コーヒーをありがたく利用する。

戦争の原因はイデオロギーでもない。
きっと個人個人の欲や嫉妬、恐怖、不寛容など幸せの追及、生への執着の裏である負の精神が集まり、膨れ上がった総体が作り上げた、曲がった選択肢。

「安全が保障された国」に住む人間は自ずとそれらを享受し、生かされている…(厳しい言い方だと実はその手は血まみれだという事に気がつかずに)

「中立国」といえば聞こえはいいが現状、それもスイスのように「国民皆兵」で強大な軍事力を自前で完結維持させることが前提。

「非暴力不服従」・・・。つまり敵が疲れ果て、諦めるか心を入れ替えるまで、自分の目の前で家族や愛する人が無抵抗で殺され、凌辱され続けることを「平和」を口ずさみながら、全国民が耐え続ける勇気も覚悟もない。



内戦のシリアから逃れようとした子供の溺死した写真。
海岸で俯せになって・・・可愛らしい手足で・・・。
それは同じ子を持つ親として一番辛い事。

悲しみと悔いの涙が自然にあふれてとめられない。

この国や自衛隊、そして自分が何かできることはないのか。

地球のポテンシャルの限界までエネルギー、穀物、水などの生産力を上げて、それを可能な限り公平効率的に配分するなど地球における人類の生存キャパシティを少しでも上げる必要がある。

それは、壁が高く厚く遠いのが現実。
そして、それは誰もが必要な事であると常に心の奥底に感じ、考えている事でもあるのではないか。

ご立派な批評家としてではない、自分自身の心の奥と向き合ったときにできる最善は何か…。

できるのは、出会った周りの全ての人に愛情を持って接し、身の回りの今総てに感謝することから始めるしかないのだろう。

いつか世界の総ての人々が自由にコミュニケーションができる世界が来ることを願いながら・・・。