ゲーテの言葉に「焦ることは何の役にも立たない。後悔はなおさら役に立たない。前者はあやまちを増し、後者は新しい後悔をつくる」とあります。

60を超えれば少しはまともな人間になるだろうと、心の奥底にそんな思いがありましたが、現実は欲望追求が以前より強くなり、孔子が云う所の「六十にして耳順(した)がう」は、はるかかなたの感情であることが分かってきました。

東京裁判で、文官でただ一人A級戦犯として処刑された広田弘毅元首相が「自らのために計らわず」と云ったのは70歳の時。

安岡正篤師は「人間なにが悩みかというと、自分が自分を知らざることである」と云っており、人間学を勉強してきたつもりでしたが、これがまったく出来でいない状況にあることを、最近何かと強く感じています。

「なぜ、同じ過ちを繰り返すのか?」
自分が人間的に未熟であることは当然としても、そもそも「一人前になるのにどのくらいの時間を要するのか?」


孔子は「七十にして矩(のり)をこえず 」といています。70歳になって、欲望のままに行動しても人の道にはずれることがない。言い換えると、欲望が欲望ではなくなるのは70歳になってから、と。


葛飾北斎は90歳になって“いい絵が描けるようになった”と言ったそうです。

これらの話からすると、60で人生が分かったようなことを言うこと自体、そもそも大きなうぬぼれ(誤り)であるということになります。

自分の弱さを感じ、それとの戦いはまだまだ続きそうです。

追記:木鶏の如く人生を歩めることが50の頃の私の思いでした。トホホホホ!