Japanese Spalding
実家は商店街の日銭商売でしたが、景気の良い時代もあった。親父もゴルフをはじめいろんな趣味を楽しみ、クルマも大好きだった。記憶にはテールフィンの長いアメ車もあって、これで幼稚園の臨海学校に家族で迎えに来たことがある。
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もちろんクーラーもない時代ですが、帰宅途上に一般国道の渋滞に巻き込まれ、いつも通りオーバーヒート。3速オートマのバカでかい排気量のくそ重い車は、2速は低すぎるし、3速だと高すぎるミッション。55マイル、つまり88キロ巡行に合わせたクルマは高温多湿の中、夏にお出かけすればこうなるのはいつもの事。
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おふくろも当時は珍しい私立大の自動車部出なんで慣れたもの。親父は普通に路肩に止めてボンネットを開けて何もしないで煙草に火をつける。おふくろはどこへともなく歩き出し、帰ってきたと思ったらミリンダの瓶ジュースを人数分抱えて帰ってきた。確か浦安あたりの海岸沿い、アサリやシジミの屋台が立っていました。時は下って大使館落ちのドイツ車の大型セダンで軽井沢に向かっていた時、高速道路で突然異音を発した。直近のパーキングに入ったのですが、周囲が振り返る程の異音。確認するとクーラーのコンプレッサーが焼き付いていた。親父とこりゃベルトを外すかと話していた時、おふくろが錆だらけの大きな包丁をパーキングエリアのキッチンから借りてきた。
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これで切っちゃえば、ってんで男子に渡すでもなく、ばさりとベルトを切った。鮮やかでしたねぇ。ブログ主も社会人になってからミニにはまった。親父もオースチンやモーリスを乗り継ぎ、家族5人で夏の軽井沢へ向った。クーラーが無いので朝3時に出るという計画で、関越道もまだない頃、大宮バイパスからずっと下道で向かったのです。
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横川の釜めしは夜明け前、10トントラックの間にミニを止めて、よくあれで5人乗って来たなぁって運ちゃんが声をかけてきた。ブログ主が凝ったのはBLミニというフロントフェイスが軽自動車みたいなモデル。学生時代からバイクをいじっていたことから、いろんなものに手を出しました。
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グルッと回るポップアップヘッドライトのオペルの1900GTやボルボのP1800、フィアットの850クーペとか廃車寸前で販売店の舗装されていない端っこに転がっていたのです。ただオペルはしょっちゅう片目になり、ボルボはバックしようにも窓から顔を出せない。親父が言うにはこれはお国柄、キャビンの熱を逃がさない様にガラス面積は小さくしたらしい。フィアットクーペは文系テニス学科のお友達を載せたら、ちっちゃくてかわいぃって評判は良かったのですが、ある日そのおねーちゃんが下りようとして踏ん張ったら、ヒールが床にグサッと刺さった。
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カーペットをはぐってみれば腐って穴が開いていた。ってんで車検も取れるわけもなくほんとの廃車。その頃の実家のクルマは親父がアルファスッドと迷いに迷ったゴルフ。ってんで最後の数行でネタの本題。今の輸入車は高温多湿に耐えられるよう熱帯仕様で輸入されるし、ファイナルギアを選べば国の事情に合わせたミッションになる。クーラーじゃなくてエアコン付きは当たり前。補器類が焼き付くなんてのはめったにない。使う国情に合わせた企画が当たり前の時代。ってんで、並べたスポルディングのモデルは国内企画。関西の老舗がOEMで生産していたものらしく本国にはないものなのですが、これを現代に見かけると詳細不明なものが多い。
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赤トップもどきやバードオンボールモドキなんてのを妄想の源として楽しんでいるのです。オリジナルよりももしかしたら日本の野芝のフェアウェイで使うには合っているのかも知れないなんて思いながら、どうしてもメジャーモデルに目がいってしまうことで登場回数が減ったのです。今回は個人の思い出話、日本昔話であります。

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