とんかつのネタで持論を長く引っ張り過ぎて、何が言いたいのか、ようわからなかったネタを改めてみます。手持ちの中にコブラのノーマンマッスルがいるのですが、これは3番からのセットで、二鉄がない。時たま見かけることもあっても、到底予算の範囲を超えており、なんでこんなに流通価値が高いのだろうかと考えたら、老舗のとんかつになったわけ。とんかつ食べるなら何とか屋の何がよろしいというのと同じで、985スタイルのアイアンならコブラのノーマンマッスル。いや、これは違うな。ノーマンフリークを入り口にして、ツアーで使い、監修したモデルだからこそ、今でもその流通価値が高い。
この985スタイルが欲しいだけなら他にいくらでもあるもんね。リサイクルショップで価格のついていなかったバックをくださいなっと言ったら、並んでいるほかのバックよりも1000円も高い言い値を返されたのに似て、欲しい者がいるなら売る方は価値を上げる。つまり、全く単純にノーマンマッスルだから高付加価値で取引されるってぇこと。マクレガーでも、90年代のサテン仕上げモデルは、確かに提供価値が一定以上であることが多いのですが、出てきた途端に引き取り手が反応するものでもない。いつだったかノーマンマッスルの二鉄が出てきて、参加しては見たものの、ブログ主には到底手の届かない範囲になり、それなりの価値で引き取られたと思ったら、すぐに再掲出された。ンでまた似たような価値で引き取られていった。
人間性善説で言うなら落札者が何らかの事情でキャンセルし、応札が盛んだった勢いをそのまま、次点に向けてに再提出したというところ。人間性悪説で言うなら、価値がどこまで上がるかと確認したかった提供者側が、何らかの方法で価値を釣り上げてみたら、自分に落ちちゃった。最後の応札価値くらいなら売れるんだろうと、即刻の再提出で案の定それなりの価格で引き取られた。匿名性の高いネット環境の中ではそんなことはしょっちゅうあるだろうし、認められるものではありませんが、それを連想させる出来事も日常的に起きている。つまり、とにかく手にしてみたいというノーマンフリークがいるんだってぇ理解にもなるし、ホーゼルにツアーだかの刻印のあるなしでその価値も段違いという流通を生んでいるのです。渦中の皆さんにとっては重大なことで、ブログ主にとっても、例えばデビッドグラハムのマクレガーが出てくれば、ミュアフィールドと変わりゃしないのに、その渦中へと飛び込む。つまりは、その只中で楽しむ者でなければ価値を理解できないことだし、あくまで自己満足の世界。
ま、再び何を言っているのかわからない小ネタになりましたが、探している二鉄に対してどれだけの価値を認めるか。これが本来のネタ。いろいろ探してみて、渋沢栄一になる前に福沢諭吉、いや、世代のイメージなら聖徳太子一枚がせいぜいというレベル。これがネット社会になって、アルミコインとか、銅貨やニッケルコインの可能性も出てくることで、価値を認める範囲は樋口一葉で目いっぱいか。ところが、捜索に年月を重ねても、なかなかお目にかからないなぁという実績を重ねると、目にした途端に次が無いと焦る。そんな時の福沢諭吉だったのがヘーゲンの95年クレンショウモデル。
逆に存在を意識していなかったマクスフライの二鉄には、ちと高いぜおと思いながらもビジネスランチのコーヒー付き程度に手を挙げてみた。長い長い2つの小ネタに渡るお話は、到底予算の範囲にないノーマンマッスルの二鉄を見て、こんなグダグダになったのでありますな。ほぉ、アメリカでの流通は国内のそれよりもさらに高レベルにあるんですねぇ。
