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熊子の部屋

イギリスにしばらく留学していた人間のブログ。

(注:長いです。ゴチャゴチャしています。忠告までに。ゴチャゴチャとした思考の経路を飛ばして、僕の個人的考えだけに興味がある方は、最後の最後の方だけ読みましょう。ホホッ)



人間は皆、平等だ。


ろうか?


、、、っ言うのが今回のセミナーのお題らしい。

僕のポジションは、


NO。。。の方。


しかーし!

思いつかねぇ。。。

しかも、さっきまですっかり忘れてた。


ついでに、風邪をこないだから引いてて、

喉痛ぇ、

下向いてると鼻水垂れてくる。。。


集中するのが、やったら、難しくてよ。

(・・・なーんて。いつものことだけど。)


なので、ここに書きながら、考えてみようかと思うのです。

(ついでに、耳に入ってるイヤホンに流れるのは、「漂流教室」の音声)



「全ての人間は平等である」のだろうか?


いんや。

違うなり。

だって、私とあなたは違う人間だし、

だーれも同じじゃない。


どこかで共通している点があったとしても、

それは、一部分でしかない。


僕らは生きている。この点に関しては、生きてる人間は同じだと同意できるだろう。

あとは?

体があります。

痛みを感じます。

心があります。

喜びを感じます。

・・・エトセトラ。


平等に、等しく誰にでも接することが、最近、良しとされているように思いますが、

果たして、それが、いつでも正しい、と言えることなのでしょうか?


たとえば、

「自分がしてもらいたいことは、他人にもしなさい」と聖書にも書いてあった気もするし、日本でも、普通に言われていますが、

以前、「ダーリンは外国人」を読んでいたら、

トニーが、それは違う、と言うようなことを言っていたように思います。

彼が例として出したのは、

「高齢者に公共交通機関の座席を譲る」ということだったように思うんですが、

大概、先に座っていた人間が、徐に立ち上がって、「どうぞ」と言う風に譲るのが一般的かと思いますが、

そういうときに、譲られることを断る方がいます。

多分、理由は、2つくらい考えられて、

実際に疲れていないから、

もしくは、「譲られる」ことによってプライドが傷つけられたから、

というもの。(他にも山ほどあるのかも知れませんが)


「断られる」という経験を何度かしたらしいトニーは、

・・・自分は次の駅で降りますので、、、という振りを、もしくは、演技をして、譲るということにしたんだとか。

・・・普通の人は、できないですよねぇ。待ち合わせに間に合うように動いてる時なんかは特に。


で、なーにを彼が言ってたかというと、

「自分がしてほしいことは、他人にするな」とか、そんなこと。

自分がしてほしいことが、他の人にも当てはまるとは限らない。そういう意味です。


だから、人間は誰も同じじゃない。

と言うのは、僕的にクリア。


が、問題は、平等ってとこ。

経済的にも、立場的にも、平等ではないと思うのですが、

多分、この場合の平等と言うのは、

ずべてが同じレベルであると言うことではなく、

何かもっと根本的に、同じものが、あるのではないか、と言うことだと思うんですね。

(・・・ここにたどり着くまで、ドンだけ長いんだ・・・)


僕らが、言うような、

人権のようなものを全ての人が持っているのか、

そんなことなのかなぁ?と思うのです。


平等なのか?

それは、平等に扱われているか?ということ?

それとも、事実、平等であるか?ってこと?


平等に扱われているか?ってことなら、

NOじゃん?

人権の侵害なんて、きっと四六時中起こってんじゃん?


でも、事実、平等なのか?ってことなら、

、、、、うぅぅぅぅん、ヤベェ、あたし、NOって言えない。。。

だってそれ、あたしが、かなり深いあたりで、「違うっ!」って言いたいところだもの。。。


ん?でも、平等?

ってなんだ?

僕らは同じように感情を持っているけれど、

同じ経験をしても、同じように感じるわけじゃない。

誰かは、死にたいのに生きてて、

誰かは、生きていたいのに、死んでいく。

学校に行きたいのに、いけない人と、

学校になんて行きたくないけど、嫌々行ってる人と。

僕らは、同じじゃない。

だったら、平等でもない?


教育を受ける権利が僕ら日本人にはあるけれど、

多分、多くの人は、

教育を受ける「義務」のように感じてる。

・・・これは、、、どういうことだ?

望まない権利を無理やり使わせられることは、人権の侵害と言ってもいいのではないか?

欲しくないアイスクリームを口の中に突っ込まれることは、罰を受けているようなものではないか?


だとしたら、

人間を、平等に扱う、というコンセプト自体、間違っているんじゃないか?

僕らは、みんな違うし、違うように扱われたいし、

差別化を望んでいる(自分だけ褒められたい、成功したい、愛されたい、とか)一方で、自分が得られないものに関しては、平等にしろっ、と無いものねだりをしているだけなんじゃないか?


だったら、はじめから、

平等だ。

なんて言わなきゃ良いんじゃないか?


みんな違う。

不平等だ。

・・・そういう前提にしておいた方が、

その時々で、相手に合わせて、行動を決められて、良いんじゃないか?

(・・・違うか?)


確かに、平等じゃない。

というと、問題が出てくる。

誰かは、特に優れていて、

誰かは、特に劣っている。っていうようなことを言う人が出てくる。。。。かもしれない。


ってゆうか、そういう人は、「みんな平等」と言われるような社会にもいると思うけど。


・・・どうなんだろう?


何はともあれ、

人間は違う。

同じじゃない。

・・・・・・・・。


差別化を望むのは、普通のことで、

それでも、自分の立場が劣っていると思えば、平等が良いとなるのかも知れない。

・・・・かなぁ?


グローバル社会が「みんな平等~」なんて思想までも西洋から各地に植えつけてしまいました。

が、事実、僕らは違います。・・・これは、誰もが認めるであろうところ。

確かに、人間は、 感じるし、考えるし、、、、色々する、、、という点に関しては、共通しているけれど、

結局、平等じゃありません。

同じじゃありません。



・・・・こんなんで良いんだろうか?

・・・・いや、だめだろう。。。

・・・・でも、しょうがないじゃん。

これ以上、思いつかん。


確かに、一人一人は異なっています。

見れば、わかるっしょ。以上。・・・・・・うーわー、短っ。


最後まで、読んでくれた人がもしも、いたのなら、

最っ高に良い人!

マジ、ありがとう。




で、実際、どうなんだろうねー。


僕的には、皆違います。

が、ヒトであるという点において、

生き物であるという点において、

存在するモノであるという点において、

全てのものは、平等に尊敬に値すると思うのです。

それ以上でも、それ以下でもある必要がない、気がするんだ。


ヒトが犬より、空気より価値があるか、

フランス人がネイティブ・アメリカンより価値があるか、

という議論には、意味がないように思えます。


僕らは、「ある」それだけで、

いいじゃんか。


・・・と、僕は、思うのです。


でした。


それでは、

風邪など、僕のように引かないように。

あでぃおーす。