辻村深月さんが

小・中学生向けに書いた文章を

たまたま読んだ。


「虹みたい」

感動を思わず口にだしてしまったら

クラスメートにからかわれてしまった



という、とあるシーンを自分は書いた。


そのとき、からかったクラスメートの心にあった感情を、自分は

「異質なものに対する排斥」

であったと思っていたけれど、


後で考えてみたら、


それだけじゃなくて


「ずるい」


という感情があったんではないかと

思う。


そういう内容だった。



私は中学校のときに、

全く同じ経験をした。



もちろん「虹みたい」という言葉は

そのままではなかったけど。


私の場合は

道端に咲くかわいい花を見て

なんてきれいなの、と日直の日誌に書いてしまった。

次の日に、クラスメートに女の子に「これあげるね!」と机に乱暴に置かれたその花は、乱雑に引き抜かれて土がついていた。

皆がクスクスわらった。



あの時、本当にとても悲しくて、みじめで。


あの出来事をきっかけにわたしは

「正直な開示をしない、するときは慎重に」

を、より徹底するようになった。




あのとき、

何も言い返すこともできなくて

恥ずかしいまま

机に置かれた花を捨ててしまった自分も

すごく嫌だった。

自分の偽善を自分で証明した気持ちになった。


あのとき、もし言い返せていたら、私、かっこよかったな。

そして、言い返せないみじめな生き物が私だったんだよね。




そして、すごーく嫌な思い出として 

 箱にいれて蓋をして、放置した。



あのとき。

花がきれいだという気持ちを自信をもって主張することはできなかったけど、少なくとも自分がそう感じたことは大事にしたいと思った。

否定をしたくなかった。

そして大事にするためにも

「口にだすのをやめよう」と誓った。


それによって守られたものもあれば、

私が口をつぐんだことで私自身が遭遇する機会を失った、キラキラしたものもたくさんあるのだと思う。





でも、


うん、そうだね。




かくいう私は、

クラスに

「虹みたい」と漏らした子がいたら

本当にそうだね、素敵な感想だね

って言えたんだろうか。


やっぱり

ずるい、と思っちゃったかもしれない。



そして、

この「ずるい!」という気持ちは

あのとき

私を嗤った子達の心にも宿っていたのかも。


この

ずるい!

という感情は、彼女たちの胸の中にあったとしても、その子達自身、

きっと意識していなかったと思う。


きれいなものをみて、

わぁきれいと言ったり、素敵だねと言ったり、


それは、「学校」という組織では

なかなか難しい。

不文律で抑制していることに、違反する。


抑制しているからこそ、

違反は重く感じられるのではないか。


そのくせ、

みんな我慢してて

苦しいからこそ「不文律」なんて最初から存在しないように振る舞うのではないか。


丁寧に隠されたベールを不躾に引っ張るような行動の罪は重いのではないだろうか。


それが「異質なものへの排除」と

結び付いて

「クラス」や「学校」は

とても残酷な組織になる。



ああ。

うん。

そうだよなぁ。


辻村さんの仮説は正しいように思われる。



そして、

そうだとして、



わたしは

喜ぶべきなのか悲しむべきなのか。

ここに希望を視るべきなのか、失望を覚えるべきなのか


わからないな。