テレビ局に勤めているいとこが、父の自分史をデータ化してくれるというので、先週会った時に渡しました


私は父が嫌いだったので、できた当初自分史を渡されてもパラパラめくって見ただけで、ずーっとタンスの奥にしまってました


自分史ができたのは平成9年
父が脳出血で倒れる5年前
それまで父は、滅多に風邪も引かないほど元気でした



いとこに渡す前に、もう一度見てみました



大きさはB4版で厚さは1.5センチほど
かなり大きくて重いです


父の両親(私の祖父母)が結婚した時の写真から始まり、祖母は今では新潟の観光名所となっている市島家出身なので、市島家ご先祖様の写真がずらっと並んでました
ご先祖様は、新潟県新発田市の大地主だったようですが、今ではすっかり廃れています
だから、私はお金持ちではありませんてへぺろ



父は大のクラッシック音楽好きで、二十歳を過ぎてからバイオリンを習い始め、音楽家の芥川也寸志さんがコンダクターだった楽団に入団して、芥川也寸志さんと知り合いだったと知りました口笛



母と結婚して、3人子どもが生まれて、私の子どもの頃の写真もたくさんありました照れ


父は、アマチュアオーケストラを設立したのと、旅行が趣味だったので、そのことがこと細かく書いてありました


特にオーケストラのことは、あまりに細かいので、読む気になれませんでしたショック



私が中学1年生の時の夏休みの宿題「おとうさんの歴史」の作文が、私の直筆で載ってました

インタビューしながら書いたのを覚えていますおねがい


写真を撮っておきました照れ


原稿用紙8枚
この頃の字、整ってたのねあせる
今はこんな字書けません汗




52歳で亡くなった母
棺の中の母に着せた洋服で写ってる写真がありました


お気に入りの洋服でした

白装束を身につけた母に、私がこの洋服をかけたのを思い出しました


私の家には、母の写真を飾っていないので、母の顔をずいぶん久しぶりに見ました


母はいつもサングラスをかけていました
白内緒なのと、抗がん剤で顔半分の皮膚が青く変色してしまったのを隠していたからです


この母は、今の私より年下
私より老けてる爆笑


母が年下って…変だなえー?
母は52歳から年を取ってません





自分史の最後の方に、こんなことを書いていました


なんのために仕事をしてたか?と聞かれたら
「遊ぶために仕事をした」と答えます


そうそう…その通り
家族のために働いていたんでしょうけど、子どもだった私には、そうは見えませんでした


多趣味の人でした
家にいる時はバイオリンやピアノを弾いて、書くことが好きなので、新聞の投書欄にしょっちゅう投稿して掲載されてました


海外旅行も好きで、行った国と日にちの一覧があり、60回は行ったようです
(ほとんど一人で)
主に行った国は、台湾、韓国、フィリピン
一番好きなのは東欧で、何度か行ってます
銀婚式に両親は東欧へ行きました
(私はそのことを覚えていませんでした)


母が亡くなる11ヶ月前でした
 



最後に…

自分は健康で病気をしたことがないのが自慢である
できれば80歳までは生きたいと思っている



この自分史ができた5年後に脳出血で倒れ
言語障害になり、右半身不自由になりました

好きなバイオリンが弾けなくなり、字が書けなくなったので、新聞の投書もできなくなりました


最期は、息子夫婦に同居しながら捨てられたも同然の扱いをされ、娘の私に看取られて81歳で生涯を終えました

最期はかわいそうでした
だけど、そういうことになったのは、家庭を顧みず、自分勝手な人だったから

「身から出た錆」


父は自分勝手で口が悪い人でした
でも、息子に捨てられてわかったみたいです

私が何かしてあげるたびに「ありがとう」というようになりました

私が子どもの頃
「誰のおかげで食べられると思ってるんだ!」
散々私に言った人が「ありがとう」だなんて
初めて聞いた時、耳を疑いました


当時、私の体調は手術するほど激悪だったので、父の介護はしたくありませんでした
でも今は、してよかったと思っています
父は私に世話をされて、喜んでいたから


昨日は父の誕生日でしたバースデーケーキ
存命だったら91歳です



ビーグル犬しっぽビーグル犬からだビーグル犬あたま


自分史は「自分の歴史」だけど、家族の歴史でもあります

こういうものを残してくれて、母方の親戚は喜んでくれました
(父方の親戚とは、ほとんど親交がないのでわかりません)

私も、今までの人生いろいろあったのでえーん
自分史を書いてみようかな?と思ったけど


4歳から24歳までの20年間のアルバム
全部弟の嫁に捨てられてしまい、写真がないので書けないわショック