母27回目の命日で、お墓参りに行きました。
昭和63年9月11日
母は52歳で他界しました。
乳がんからあちこち転移し、
肺がんになり、呼吸困難になりました。
亡くなる前月、父と受診して、
「あと1か月だから、もう来なくていい」
と医者に見放されました。
主治医は、態度がデカい人だったそうです。
昔のお医者さんは、そういう人が多かったのかな?
29年前の私の脳外科の主治医も、
ぶっきらぼうで、横柄な人でした。
話しが脱線しました。
そのころ、私は5か月前に結婚して、
同じ市内に住んでました。
父から、そのことを聞き、
できるだけ家に帰るようにしました。
余命1か月を宣告されて
「もうどうせ死ぬんだから、好きなことするの」
そういって、呼吸が苦しくなると、
缶の酸素をスーハーやってたくせに、
タバコをプカプカ吸ってました。
毎日新聞広告を見て、墓地を決めました。
昔のアルバムをみて、「遺影はこれにしてね」
自分で決めました。
薬の副作用で、顔半分に青あざができてしまい、
写真を撮ってなかったので、
私を妊娠してた26歳の時の写真なんか選びました。
実際は52歳なのに、ずーずーしぃよ(ーー゛)
立てなくなり、トイレに行けなくなりました。
私が母に紙おむつをあてました。
「もっと上のほうに!漏れちゃうよ」
子どもを生んだことがなく、おむつをあてたことがない私に、
自らあてかたを指示しました。
9月9日 私25歳の誕生日
父の話によると、その日はとても苦しがったけど、
「娘の誕生日が母親の命日になってはいけない!」
といいながら、がんばってたそうです。
9月10日
学生時代の友達が、私の家に遊びに来ていました。
お昼に父から電話が。
「息ができなくなって、救急車呼んで入院した」
友達には悪いけど帰ってもらい、
「まだ死んじゃダメー!まだ死んじゃダメー!」
といいながら自転車をすっ飛ばして、病院へ行きました。
酸素吸入してると思ったら、何もせずベッドに座ってました。
「まるで溺れてるみたいに息ができなくて苦しかった」
普通に会話ができました。
消灯時間になったので、
「じゃ、また明日くるね」
部屋の扉を閉める時、母が手を上げました。
動いている母を見たのは、それが最後でした。
その日の夜中、父から電話が。
「意識不明の危篤状態。すぐに来て!」
9月11日
母方の親戚全員呼んだら、全員来ました。
母の母(祖母)は、部屋の隅で小さくなって座ってました。
「意識がなくても耳は聞こえるから、呼んでごらん」
義父が言うので、みんなで名前を呼びました。
すると・・・
ツーっと、目じりから涙が・・・
ママ!もう頑張らなくてもいいからね!
私がいうと、フ~っと酸素マスクから漏れる声が
52歳と9カ月の生涯でした。
母が亡くなる2年前。
私は脳腫瘍の手術をしました。
母は心配するそぶりを、
私には全く見せたことがなかったけど、
手術が終わって、ICUで面会した後、
泣いたそうです。
当時カレシだったダンナが教えてくれました。
心配しないはず、ないです。
お葬式の時、その時のことを思い出し、
何があっても、52歳まではガンバロウ!
生きる目標にしました。
27年間、様々なことを乗り越えて、
平成27年9月9日52歳になりました!
今度は、ママが迎えられなかった53歳を目標にするよ
墓前に言いました。
ここに眠っている父も聞いていたと思います。
父は81年の生涯でした。
父の歳まで・・・うーん^_^;