祖父のノート-11 小原國芳校長について | 温暖化で氷河期な気持ち

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学校の教育方針や、個々の教科の授業ぶりや教授細目が、今のべた機関雑誌に発表されるので、全国の若い血の気の多い、従来の教育にあきたりぬ人達の注目する所となって、泊りがけで見学に来る先生たちが多くありました。そんな時、僕は教員室に呼ばれ、お土産がはりに、即興曲を作り、歌詞もそへて、渡したものでした。

これだけでも、当時の小学校の先生方は大がい驚嘆してた様でした。眞篠先生は後に伯林(ベルリン)へ留学され、帰国したら、正式に音楽を教えていただく筈のところ、僕は転校して駄目になりました。

 

 

普通の小学校に幾分の才能があって、上手におだてれば、天才児童と称される程度のものだったろうと冷汗ものですが、もし転校せずに残って、よい指導者があって、僅かな才分でも伸ばしてくれたなら、現在と今少し違った道を歩んでゐたろう、流行歌作曲か失音楽士か、何れにしろ、その方も亦(また)、進んでよかったかも知れない、幾分の自惚れがあるにしても、今弾くピアノのもどかしい手つきではなくて、堂々とショパンのノクターンぐらゐ弾けてゐる事でせう。又は「日本を讃える三つの組曲」とでも云った作曲で、ウィーン交響楽団でタクトを操ってゐる、--なかなかに釣り落した鯛は大きいものです。

 算術も面白い試みをやりました。一組は一年から教へ、他の一組は三年まで教へず、四年から教へる。つまり、知能の他の教科と平行して増してから算術授業をはじめたクラスと、最初から他の教科と平行して始めたクラスと、だれがよい成績を示すか、といふ問題です。アメリカのある州の相当大がかりな実験では、矢張り一年から始めた方が、算術に関しての成績は優秀になってゐます。が、兎に角、さうした「実験」を敢然と行ひ得た所に新教育の価値があったのです。

 話が後先になりますが、初代の主事は一年位でやめ、二代目は小原國芳先生が来ました。云ふまでもなく「成城」を築き上げたのはこの人です。「教育の根本問題としての宗教」とか「修身教育論」とか、いろいろ本を出してゐます。新カント派の流行時代、その理想主義、人本主義の影響を最も身に受けた人で、九州人らしい熱情や、基督教徒としての信念が混淆して、当時として珍しい型の実行的教育者でした。

 

 

成城学校はその頃、支那の留学生を多く収容し、僕らの小学校と云ふのは、その寄宿舎の一部を改造した、何十年にもなろう木造の二階建でした。然しこの汚い建物が若い教育者には新興教育のメッカと見倣されて、光り輝いたのも、小原先生が指揮をとってからでした。元気一杯の先生御夫妻は、教室つづきの寄宿舎の一室を我が家とされ、昼も夜も学校経営ーーといふより、自由教育の萌芽を育てる為に、心魂をくだかれたのです。あの頃は、小原先生にとって一番楽しかった時代ではないかと考へられます。どうしても、ああした活動型の人は、建築期に重要であって、爛熟期、守成期に甘んじられる人ではなかった様でした。

 一つの特別教室、一つの運動器具もなく、全く小原先生の意気と熱で全組織が動いてゐた時代でした。他の先生達も小原先生を尊敬し、喜んで仕事の分前を取る人々であったし、父兄も亦よく新教育の使命を理解した知識階級ばかりだったので、仕事もやりよかったと思います。それが、組織が拡大し、運用が鈍くなると、次第に金が必要となり、ブルジョアの父兄や、一意見ある父兄の権力が増大し、生徒の質は低下し、校長の独或はきかなくなり、遂には敗退を余儀なくされるのだと僕は考へます。成城学校騒動で、小原校長の人格や仕事ぶりも随分と悪く云はれ、暴露されましたが、僕は、気の毒だと思ふばかりで、にくむ気になれず、むしろ、やめた方が先生自身にとってもいい事だと思いました。今、玉川学園長として、信念のままに、自律自活の塾をやってゐます。朝は四時ごろ、生徒と一緒に起き、山で祈り、午前は勉強し、午後は労働し、夜は読書し、研究すると云ふ生活ですから、成城学園長として苦労するより、いいでせう。外国の新教育学校や塾が大がいつぶれるのは、財政の破たんからで、玉川学園も、その点で、くるしいでせう。しかし、いつも変らぬその熱意には頭が下ります。「ただ一人の賢者出よ」と叫ぶ貴族主義(アリストクラシー)の教育思想は僕の取る所でないにしてもーー。教育者たるものは、いつもあれだけの信念、意気ごみを持つ可きだと思います。僕が後に、教育者になれなかったのは、複雑な現代生活と、思想に疲れ、子供を教育する積極的信念が充分出来てゐない事に非常な不安を感じたからでした。

※喜ぶ、は七が三つの漢字で書かれている。

 ()の中は、自分が読み方を調べて書いたところと、

 祖父が読みを書いていたところ(貴族主義=アストクラシー)がある。