小学校、中学校、高等学校と義務教育を経て来たが、
ふと、1つだけ教わったことがないなと気づくことがある。
それは、心の場所。
幼い頃に、祖母が大きな大きな書店に私の手を引いて連れて行ってくれたときに、
欲しい絵本ではなく、人体図鑑を買ってくれた。
あまりにも重たい図鑑で、しばらく私が手首に掛けて持って歩いたが、途中からその重たさに負け、祖母に持ってもらったのを覚えている。
その本をまじまじと見たのは小学4年生の頃だった。
人間の脳みそ、筋肉の造り、神経の配列、臓器の在り場所。
そのどれもが自分の身体の中にも存在するのだと思うと怖かった。
その怖さは次第になくなった。
その図鑑にも、心の在り場所は書かれていなかった。
故人アリストテレスはそれは心臓にあると考え、ヒポクラテスは脳にあると考えたらしい。
ある時、私はその疑問を二人の娘に問いかけたことがあった。
長女13歳、二女6歳の頃だったかと思う。
その質問に対し、長女はこう答えた。
「エマは、体の真ん中だと思う。この辺り。明日ママがいなくなったらどうしようって思うとこの辺がきゅ~ってなるから」
なるほどなと思った。そして、
サラは私の首の辺りを指さしながらこう答えた。
「ここ。だってね、いっつも色んな色に変わる場所じゃん。ここって」
と。
サラの不思議発言には慣れっこだ。
エマが私に問う。
「え、ママはどこにあると思うの?」
私は、自分の喉付近を指さしながら、
「ママは、この辺にあると思ってる。どうしてかっていうとね、涙が出そうになったり、心が苦しくなるとね、ママは決まってここが熱くなるのよ。だからここに心があるのかなぁって思うの。」
こんな会話をしたことがある。
何か、ショックな出来事に触れたとき、
どうして・・・なんで・・・と、大きな衝撃とショックが身体を支配する。
それは、恐らく万人が同じだろう。
その感覚と向き合うことは、正しいことだと思う。
ちゃんと受け取って、向き合うと、
不思議と消化も出来てくるものだ。
ただ、見て見ぬふりをすると、恐怖や不安は増すのかなと。
そして、
今こうして生きていること、いつか人は死んでしまうことに、
あまり深く考えなくていいと思っている。
これは持論なのだが、
そこを考えても正しい答えは見つからないからだ。
私も、親しい人物を何人か見送り、何度か生死観の追究から抜け出せない時期があった。
日本人なら、イザナミとイザナギにまつわる話を知っている程度でいいと思っている。
なんだっていいじゃない。
自分の心の持ちようで、世界の色は変わるんだから。
そんなことを、身近な人間からいつも思わせてもらっている。
物事を掘り下げて考えがちな私に、いつも童子が私に向かって、
「ママ、明日には生まれるよ。こないだ枯れたあの子の赤ちゃんがもうまた生まれるよ!」
と、真剣な顔で訴えている。
この子には、花の散る様、開く様がそんな風に見えているのかと、ハっとする。
私のこの胸の痛みも、きっと杞憂に過ぎない。