数日後――。
ヴァンディッシュ公爵家。
春の陽射しが庭園を優しく照らし、屋敷には穏やかな時間が流れていた。
鳥のさえずり。
風に揺れる花々。
そして――。
木陰で優雅に紅茶を飲む、一人の令嬢。
「……平和。」
エルザ・ヴァンディッシュは、満足そうに本を閉じた。
(今日も最高。)
(本を読んで。)
(お茶を飲んで。)
(少しだけ領民の相談を聞く。)
(完璧な引きこもり生活ね。)
前世では、常に誰かのために走り回っていた。
だからこそ、今世では穏やかに生きる。
それがエルザの目標だった。
――しかし。
その平穏は、突然破られる。
「王宮より使者です!」
屋敷の正門から、使用人の声が響き渡った。
「……。」
エルザは嫌な予感を覚えた。
(嫌な予感しかしない。)
◇ ◇ ◇
玄関。
執事セバスチャンは、緊張した面持ちで一通の封書を受け取っていた。
封蝋には、クリスティア王家の紋章。
「旦那様。」
「国王陛下より、親書でございます。」
執務室。
公爵レオナルド・ヴァンディッシュは、慎重に封を開く。
その場には、公爵夫人クラリス、息子カイル、そしてセバスチャンも集まっていた。
誰もが固唾を飲んで見守る。
そこに書かれていたのは、国王オーウェン・ヴァン・クリスティア自らの言葉だった。
ヴァンディッシュ公爵へ。
まず初めに、我が息子、第一王子アルフレッドの命を救ってくれたことに、王家を代表し深く感謝する。
貴公の娘、エルザ嬢の行動については、すでに報告を受けている。
また、公爵領の報告書も確認した。
そこには――。
子どもたちの怪我への対応。
高齢者の健康相談。
妊婦への生活面での助言。
そして、身分に関係なく困っている者へ自然に手を差し伸べる姿が記されていた。
社交界で語られる評判とは、あまりにも異なる人物である。
余は、その真実を自らの目で確かめたい。
ついては数日後、王妃ソフィアと第一王子アルフレッドを伴い、ヴァンディッシュ公爵領を視察する。
その際、公爵家にも立ち寄らせてもらいたい。
エルザ嬢にも直接会えることを楽しみにしている。
クリスティア王国国王
オーウェン・ヴァン・クリスティア
読み終えた瞬間。
部屋に沈黙が落ちた。
「……陛下が。」
クラリス夫人が目を丸くする。
「エルザに会いたい、と……。」
カイルも驚きを隠せない。
「姉上、完全に王家から注目されてるね。」
レオナルド公爵は額に手を当てた。
「これは……。」
「本当に大変なことになった。」
そして次の瞬間。
「全員、準備を始めろ!」
公爵の声が屋敷中に響く。
「王家をお迎えするのだ!」
「失礼があってはならん!」
「庭園の整備!」
「客間の準備!」
「厨房も確認を!」
「はい!」
使用人たちが一斉に動き始める。
屋敷は瞬く間に慌ただしくなった。
◇ ◇ ◇
しかし。
その騒ぎの中心人物は――。
何も知らなかった。
庭園。
エルザはいつも通り紅茶を飲みながら、本を読んでいる。
『のんびり暮らしの知恵』
「……なるほど。」
「無理をしないことも健康管理の一つね。」
(素晴らしい。)
(今の私にぴったり。)
その時。
「エルザァァァ!!」
屋敷の方から叫び声が響いた。
「……。」
エルザはゆっくり顔を上げる。
(この声。)
(絶対ろくなことじゃない。)
次の瞬間。
父レオナルド公爵が全力で駆けてきた。
「エルザ!」
「頼む!」
「今回は逃げないでくれ!」
「……はい?」
エルザは首を傾げる。
「何から?」
公爵は震える手で答える。
「王家だ。」
「……。」
「国王陛下。」
「王妃殿下。」
「そして第一王子殿下がお越しになる。」
沈黙。
数秒後。
エルザは静かに立ち上がった。
「逃げます。」
「早い!」
「まだ何も説明していない!」
「説明を聞いた結果です。」
「判断が早すぎる!」
公爵は必死に娘を止める。
「頼む!」
「父を助けると思って!」
「……。」
エルザは少し考えた。
「それは難しいお願いですね。」
「なぜ!?」
「王家ですよ?」
「関わった瞬間、平穏な生活が終わる予感しかしません。」
「お前……。」
公爵は頭を抱える。
そこへカイルがやってきた。
「姉上。」
「本当に逃げるつもり?」
エルザは真顔で頷く。
「もちろん。」
「まだ数日あるもの。」
「最後まで可能性を探るわ。」
カイルは深いため息をついた。
「……姉上らしい。」
その様子を見ていたセバスチャンは、小さく呟く。
「これは……。」
「王家のお迎え準備より先に、エルザお嬢様の逃亡阻止が必要ですね。」
こうしてヴァンディッシュ公爵家では――。
王家を迎える準備と同時に。
もう一つの作戦が始まった。
その名も。
『エルザ逃亡阻止作戦』
である。
そしてエルザはまだ知らない。
次に訪れる第一王子アルフレッドが――。
以前よりもさらに本気になっていることを。
――第10話へ続く。