王都の喫茶店。

エルザ・ヴァンディッシュにとって、今日は珍しく穏やかな休日になるはずだった。

医学書を買う。

美味しい紅茶を飲む。

そして、静かに領地へ帰る。

それだけ。

それ以上は何も望んでいない。

「……平和です。」

紅茶のカップを眺めながら、エルザは小さく呟いた。

「本当に平和です。」

「お嬢様。」

向かいに座るセバスチャンが微笑む。

「そのように何度もおっしゃると、不思議と何か起こる気がいたします。」

「気のせいです。」

エルザは即答した。

「今日は医学書を買っただけです。」

「王族にも会っていません。」

「社交もしていません。」

「完璧な休日です。」

セバスチャンは何も言わず、紅茶を飲む。

(お嬢様。)

(その自信は、どこから来るのでしょうか……。)

その時だった。

少し離れた席から、華やかな笑い声が聞こえてきた。

「聞きました?」

「第一王子殿下のお話。」

エルザは何気なく視線を向ける。

数人の令嬢たちが、お茶会を楽しんでいた。

皆、王都でも名のある家の令嬢らしい。

上品なドレス。

整えられた髪。

優雅な笑顔。

「生誕祭には、多くの貴族が集まるそうですわ。」

「ええ。」

「父も張り切っておりますの。」

「殿下へご挨拶する機会を作る、と。」

「うちも同じです。」

「偶然を装ってお会いする予定ですもの。」

「まあ。」

「本当に偶然ですの?」

「もちろんですわ。」

令嬢たちは楽しそうに笑う。

エルザは紅茶を飲みながら、小さく呟いた。

「偶然って。」

「便利な言葉ですね。」

セバスチャンが苦笑する。

「貴族社会では、よく使われる言葉でございます。」

「大変ですね。」

「はい。」

「私は遠慮したいです。」

「存じております。」

二人が小さく笑った、その時。

エルザの表情が変わった。

視線の先。

お茶会の中に、一人だけ様子の違う令嬢がいた。

淡いクリーム色のドレス。

柔らかな雰囲気の女性。

しかし。

先ほどから何度も欠伸をこらしている。

紅茶にもほとんど手を付けていない。

顔色は悪くない。

けれど。

疲れているように見える。

「……。」

エルザは静かに観察する。

(眠気。)

(疲れやすい。)

(集中力の低下。)

(それに……。)

令嬢が紅茶の香りから、わずかに顔を背けた。

(香りへの反応。)

エルザの表情が少し変わる。

もちろん。

ここだけで判断はできない。

けれど。

医療の現場で、何度も見てきた小さな変化だった。

その時。

隣にいた令嬢が、ため息をついた。

「あなた。」

「先ほどからぼんやりしていますわね。」

「申し訳ありません……。」

眠そうな令嬢が小さく頭を下げる。

「最近。」

「何をしていても眠くて……。」

「疲れやすくて……。」

「でも、頑張らないとと思っているんです。」

すると別の令嬢が首を傾げた。

「でも。」

「生誕祭も近いのですよ?」

「第一王子殿下にお会いする機会もありますのに。」

「そんな様子では、良い印象を持っていただけませんわ。」

眠そうな令嬢の表情が曇る。

「私も……。」

「努力しているつもりなのですが……。」

「体が言うことを聞かなくて。」

別の令嬢が小さくため息をついた。

「それは言い訳ではなくて?」

「皆、それくらい乗り越えておりますもの。」

「もっと頑張る必要があるのではありませんか?」

その言葉を聞いた瞬間。

エルザは静かにカップを置いた。

「……。」

セバスチャンはすぐに気付いた。

「お嬢様。」

「はい。」

「行かれるのですね。」

エルザは少し困ったように笑う。

「……放っておけませんから。」

「左様でございますか。」

「はい。」

「やはり、お嬢様でございますね。」

エルザは立ち上がった。

そして。

令嬢たちの席へ歩いていく。

「失礼いたします。」

穏やかな声に。

お茶会を楽しんでいた令嬢たちが、一斉に振り向いた。

「……あら。」

「どちら様ですの?」

その中の一人が、エルザの顔を見て目を見開く。

「まさか……。」

「ヴァンディッシュ公爵令嬢。」

「エルザ・ヴァンディッシュ様……?」

その名前が出た瞬間。

お茶会の空気が変わった。

「えっ。」

「あの悪女令嬢?」

「社交界で有名な……。」

「冷酷で誰も寄せ付けないって……。」

小さなざわめきが広がる。

しかし。

エルザは気にした様子もなく。

ただ一人の令嬢へ視線を向けた。

先ほどから眠そうにしていた令嬢へ。

「少しだけ。」

「お話を伺ってもよろしいでしょうか。」

令嬢は驚いた。

「わ、私ですか?」

「はい。」

「少しだけ。」

その瞬間。

お茶会の空気が変わり始めた。

――第32話 王都編②(後編)へ続く。