韓国旅行 忠清北道4日目⑤ 浮石寺 | 韓国旅行記

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歴史、文学、伝承、民話、美術、飲食などを絡ませながら旅します。

タクシーの運転手さんと雑談を交わしながら、浮石寺(プソッサ)までのドライブを楽しみました。

丹陽八景から浮石寺(プソッサ)まで
約45分で着きました。
運転手さん、頑張りましたね。

慶尚北道 栄州市 浮石寺(プソッサ)




見ての通り山が一望できます。
浮石寺(プソクサ)はとても景色が開けていて、爽やかな寺でした。

過去に建築家200人にアンケートを取ったところ、“最もよい古建築物”で圧倒的な票を得て一位となったお寺です。


楼閣です。安養楼閣



しかし、浮石寺の美しさは建築物単独でそれぞれを見るものではないようです。

山の自由で豊かな自然と、隙のない人工の秩序との調和がなされているところを見るべきのようです。

不思議です。自然は自由奔放で、直線などはありません。人工物は計算しつくされた直線と曲線です。その調和が不思議です。

そして、ここ浮石寺は全ての道や家や自然が無量寿殿を中心として造られているようです。

浮石寺を創建した義湘祖師(625~702)が
言うには

『“全てのものが円満に調和して、2つの姿に別れることなく、一つが即ち全てで、全てが即ち一つである“
という円融の境地を見せてくれるのがここ浮石寺である。』

仏教についてよくわからないのですが、この円融の境地についても、よくは解っていません。f(^_^;

ただ、ここ浮石寺が荘厳な華厳世界のイメージを建築という視覚媒体で現したお寺であるということです。

これは何を意味するのか?
話さない者と話す者との対話、自然と人間との対話、そんな事を考えてしまいました。

そして、この浮石寺も白頭大幹(ペットゥテガン)の流れの中に位置しています。そしてこの場所は今も昔も人が簡単には行けない山奥に建てられています。
これも意味があるのでしょうね。

この簡単には行けない道を一歩一歩と登る、その過程が極楽世界へと向かう巡礼の道なのでしょう。

そんなお寺の一番の自慢が無量寿殿です。


韓国で一番古い木造建築であり、国宝(第18号)です。

浄土三部経のひとつに『観無量寿経』というのがあります。たぶん、ここから建物の名をとったのでしょう。

これには極楽世界へ至ることのできる16の方法が説明されています。

その中にそれぞれの行いにより極楽浄土に生まれ変わることが出来ると書かれている部分があります。それが九品曼陀羅です。

この極楽世界を主宰する阿弥陀如来が無量寿殿にいます。

ある建築家がこの建物の美しさを讃えて、こう語っています。
『変化と調和のある構造から旋律を読むことが出来る。長と短の律動がここにある。』音楽ですね。

しかし、建物の美しさもさることながら、やはり此処から見る景観が壮観です。


幾重にも重なる山の稜線が見事です。
こんな景色を毎日見ていたら人間が変わりそうです。

天下の放浪詩人、キムサッカ(김삿갓)
の詩の一部です。

生涯において暇もなく、名だたる所はどこも行けなかったが
白髪になった今、来ることができた

過ぎ去った全てのことが馬を乗って駆けるが如く
宇宙空間に私の体がアヒルのように泳ぐ

人生百年、幾度このような景観を観れるか
歳月は無常だ
私はすでに老いた

この無量寿殿の左に創建説話となった浮石があります。




写真で見ると大きな岩が折り重なっているように見えますが、近くで見ると若干の隙間があります。

どの石がこの大きな岩を支えているのか?
こちらから見えない後ろの石が支えているのだろう、と一人勝手に納得することとしました。

このお寺には創建説話となった義湘と善妙のお話しがあります。

義湘が唐(中国の王朝 )に留学した時、善妙という女性に出会います。善妙は義湘に思いを寄せますが、義湘にその気がないのを知ると『世世生生、義湘大師に帰依し、貴方が必要とする全てを捧げる』と自分の願いを言います。

義湘が華厳学を学び国に帰る時、善妙の所へお世話になった挨拶に行きますが、善妙は出かけていて会えませんでした。

後から帰って来た善妙は、義湘に渡そうと準備していた服などを持って追いかけましたが、すでに船は出港していました。

善妙は持っていた服の箱を海に放り投げ、私の体が龍になり、あの船を無事に帰国させたいと、海に身を投げました。

義湘は帰国後、寺を建てるのにふさわしい場所を探し求めます。

そして、ここに至った時、
“高句麗のほこりや、百済の風が届かず、馬も牛も近づくことが出来ない場所”として仏法の修行にふさわしい処と考えました。

しかし、ここには邪教の群れ500人が既にいました。

死んでまでも、義湘についていった善妙は虚空中に四方1里にもなる大きな岩となり、浮いて見せたのです。

これに驚いた群れは四方八方に散って行きました。

そして義湘はここで華厳経を修めることが出来ました。

この時できた浮石が無量壽殿の左側にある先程見た大きくて平たい岩です。

この事から、この寺の名前が" 浮石寺 "と付けられたそうです。

多分に脚色はされているだろうけど、寺の名前の由来となった程、この善妙はこの寺にとって忘れてはならない存在だったと言うことが伺えます。

そして、この善妙の彫刻が京都の名刹、高山寺にあります。

12世紀、善妙を偲んで造られた美しい彫刻です。

鎌倉時代、明恵上人が高山寺の下に善妙尼寺を建てそこに善妙像を奉安しましたが今は廃寺となり、善妙の彫刻は今は京都博物館に委託されています。

明恵上人は何故に善妙尼寺を建てたのか?

鎌倉時代と言えば多くの内戦により世が荒れていた時代です。戦争未亡人も多く出たことでしょう。
この戦争未亡人のために建てられたとあります。いつの時代も戦争は未亡人や孤児を多く生み出します。しかし、人類は戦争をやめません。


浮石寺は676年 新羅( 57 B.C.~A.D. 935)
文武王(在位 661∼681)の時に
義湘祖師(625~702)が 王の命を受けて建てたものです。

浮石寺(ふせきじ、プソクサ、ブソッサ)は、大韓民国慶尚北道栄州市にある仏教寺院である。

韓国10大名刹の中の一つ。

無量寿殿(大韓民国指定国宝第18号)は、韓国最古の木造建物の一つとされる。

浮石寺は入口の天王門から安養門に着くまで108の石段を登りますが、これは108の煩悩からの救いの意味がこめられています。

一柱門, 天王門 を過ぎると 浮石寺の三層石塔が現れ ,その上に梵鐘楼が見えます。

三層石塔です。

梵鐘楼を過ぎると,極楽に向かう入り口を意味する "安養"という 樓閣があります。

美しい❗
夕暮れの安養楼閣は素晴らしい景観です。

安養楼を過ぎると柔らかい曲線美を強調した浮石寺 の本殿 無量壽殿に着きます。

無量壽殿 は高麗時代に作られた木造建物でその中には塑造如來坐像 (国宝45号)が安置されています。

また寺の中には国宝である 祖師堂(国宝19号) 祖師堂壁画(国宝46号) 無量壽殿前 石燈(国宝17号)等がありそれ以外にも多くの遺物と遺蹟があります。





無量壽殿前 石燈


義湘大師を奉る祖師堂

祖師堂のまえの金網、これは如何なものでしょうか。この堂の美しさを殺してしまっているようです。

この金網の中にか弱げな植物がありました。
義湘大師が投げたワラから葉が出て育ったといわれています。
この葉を食べると子が授かると云われ、人々が採っていくため、仕方なく保護しているようです。

最後に、国立中央博物館長であり、美術史学者であった崔淳雨がこの無量寿殿について書き残した文を紹介したいです。

ひっそりとして、もの寂しい、稀有な美しさは言葉に現しがたい。無量寿殿の柱にもたれかかり、ありがたさに幾度も自問自答する。

高くも低くもないこの地に処を構えて、自然の美しさを一層くっきりと見せてくれ、佛の教えをさらに崇高で尊厳な美しさに導いてくれた、飛び抜けた眼目の所有者。今、私たちの頭にぐるぐる回るその名は、浮石寺の創建者、義湘大師である。

素晴らしい仕事をした人の恩恵を私たちは受けているのですね。身に染みます。

日が暮れて来ました。

今から栄州の駅に行き、そこからソウルに戻ることとします。

次回に続く~