中国共産党史第2回ということで、上海クーデター後の中国共産党史についてまとめていきます。
【南昌蜂起】
上海クーデターで始まった、共産党への逆風。ここから国民党と共産党の対立が激化していきます。
しかし、国民党の武装勢力を率いる左派幹部の中にも、共産党に共鳴する者も一部現れていました。
そういった将兵約2万人が、1927年8月1日、共産党勢力に寝返る形で武装蜂起を開始しました。これを南昌蜂起といいます。江西省の省都・南昌でのことでした。
これは中国共産党が起こした最初の武装蜂起ということで紹介されることが多い様です。
ただ、この蜂起を事前に察知していた共産党の指導部とコミンテルンは、南昌の蜂起軍を積極的には支援はしませんでした。その理由として、「国民党と全面対決できる組織基盤はまだ出来ておらず、決起は時期尚早」と考えたようです。そのため、 国民党軍の激しい反撃にあった南昌の蜂起軍は、あえなく敗走することとなります。
しかし、この「南昌蜂起」が起こった8月1日は、中華人民共和国が成立した後の歴史教育では「中国人民解放軍の建軍記念日」とされています。 人民解放軍の軍旗には、「八一」の二文字があるんです。また、人民解放軍のウェブサイトのドメインにも、81が入っています。
※もっとも、南昌蜂起の時には農家から略奪とか暴行をしていますんで、人民解放とは真逆のことをやっちゃってます。
さて、とはいえ、この南昌蜂起によって、国共内戦の流れが加速したのは事実でした。
【秋収蜂起】
南昌蜂起から6日後の八8月7日、中国共産党の臨時会議、通称八七会議が開かれます。
国民党に融和的な陳独秀路線が破棄されて、陳独秀は解任されます。ちなみに彼はその後いろいろあったんですが、1929年には党を除名されました。
そして八七会議では、同年秋の収穫期に各地で武装蜂起を行うとの決議が採択されました。南昌蜂起という大事件の発生で、国民党勢力との対決が避けられなくなった以上、先手を打って、国民党に揺さぶりをかけようというのが狙いでした。
当面の目標として湖南、湖北、江西、広東の4省で農民蜂起を発動することを決定しました。この大規模な蜂起計画において、重要な役割を担うことになったのが、毛沢東でした。
1927年9月9日、後に「秋収蜂起」と呼ばれる一斉蜂起が開始されました。
しかし、南昌蜂起と同様、各地の共産党勢力はすぐに、物量に勝る国民党軍の逆襲を受けて敗退し、中国共産党の指導部が最重要地域と見なしていた湖南省でも蜂起は完全な失敗に終わりました。
【井崗山の毛沢東】
この敗北により、毛沢東は共産党指導部から厳しい批判に晒され、党内での地位を下げられます。失意の毛沢東は、およそ1000人というわずかな敗残兵を率いて、井崗山という山へ逃げ込みます。
井崗山というのは、湖南省と江西省の境にある連峰です。
ここは、毛沢東が最初に切り開いた革命の聖地として、非常に名高い場所、いわば聖地になっています。平地と違って、攻められにくく、守りやすいこの場所を彼は革命の当面の根拠地としようと考えたのです。他にも革命根拠地はありましたが、この井崗山が最も有名です。
後に南昌蜂起の敗残部隊約2000人を引き連れた中国共産党の朱徳の軍勢が井崗山に合流してきて、勢力が増します。
ここで有名なエピソードをひとつ紹介します。
毛沢東が来るまで、井崗山には、山賊の様なグループがいました。王佐と袁文才というのが山賊的グループの頭目だったのですが、毛沢東は最初彼らを褒めたたえ、低姿勢な態度で、彼らをうまくとりこみます。しかし、その後しばらくすると、王佐と袁文才は革命家とは認められずに、処刑されてしまうのでした。酷いですね。
革命根拠地では、「国民党のスパイでは?」という理由から、仲間の粛清もそれなりに行われていました。
毛沢東は、土地革命というものを行いました。
地主や富農を敵とみなし、その土地や財産を没収して、貧農に分配したりしつつ、井崗山で少しずつ勢力範囲を拡大していました。
また、軍事的な基本戦略としては、国民党と真正面からぶつかるのではなく、山岳の地形をいかしたゲリラ戦法をとっていました。
ですが、朱毛のこのゲリラ戦法は、腰抜けの敗北主義だとして、親ソ連派の共産党中央から猛烈な批判を受けます。 このことで、毛沢東と共産党中央の距離は拡大していきました。
そんな中、共産党中央は、都市部の支配権を奪うべく、大規模な攻撃を行うよう、朱毛やその他のリーダーに命令します。広州コミューンというのが特に有名です。しかし、結果として、これも失敗に終わるのでした。
【瑞金ソヴィエトとその陥落】
上海の中国共産党指導部が発案した都市部への総攻撃が、明白な失敗に終わったことで、実状に合致しない計画を乱発する共産党指導部の威信は大きく低下します。
こうした状況に危機感をもった党指導部は、朱毛の支配する、江西省の瑞金に「瑞金ソヴィエト」と称する自治政府を樹立する決定を下します。1931年11月のことでした。ちなみにソビエトとは、ロシア語で、「評議会」の意味です。
この主席には、毛沢東が就任します。ただし、副主席にはソ連に忠実な党中央の人物が置かれ、毛沢東の発言力は制限され牽制される格好となります。
さて、これを黙って見ている国民党ではありません。
蒋介石は、瑞金ソビエトが樹立される前から、共産党掃討作戦を実行します。
1930年12月から33年1月までの約2年間に、江西省一帯の共産勢力根拠地に対し、計四回もの殲滅作戦(剿共作戦)を実施。
まず第一次掃討作戦では、10万の軍隊で攻撃しますが、失敗しました。
次の第二次掃討作戦では、20万の勢力で攻撃し、それなりのダメージを与えますが、殲滅はできませんでした。
さらに第三次掃討作戦では、30万の勢力で猛攻撃を行います。共産党は大きなダメージを受けます。蒋介石はさらに20万もの兵士を動員し、50万人体制で共産党を殲滅しようと作戦を立てていました。
ところがです!
この第三次掃討作戦の最中に、満州事変が起きます。柳条湖事件。これに気をとられて、やはりこれも失敗します。
それでも蒋介石は、「壌外先安内」という方針のもと、第四次掃討作戦を実行します。
しかし、これもまた、大日本帝国が熱河省に侵攻してきたのでそれに対抗せざるを得ず、失敗に終わります。
後に日中戦争が起きますが、満州事変、そして日中戦争がなければ、ほぼ確実に、中国は「蒋介石が勝者」の国になっていたことでしょう。
さて一方、中国共産党でも内部対立がありました。毛沢東と党中央の間では、革命闘争の方針でも、大きな隔たりがありました。
簡単に言うと、都市重視vs農村重視の路線対立です。
コミンテルンの影響を強く受けていた党中央は、都市部での勢力拡大にこだわっていました。
しかし、毛沢東は、革命闘争の主役は農民とし、農村から都市を包囲する方針でした。
中国史的にも、歴代王朝をひっくり返してきたのは農民反乱であるパターンが多いですが、毛沢東はそこに学んだと言われています。
また、先ほど話したように、国民党との戦い方についても意見の対立がありました。
ここまでの第一次掃討から第四次掃討まで、基本的に朱毛のゲリラ戦法で戦ってきていました。しかし、エリートのソ連組は、このゲリラ戦術を「退却と逃亡でしかない」などと批判して、正面出撃を主張します。
コミンテルンのオットー・ブラウン(中国名:李徳)軍事顧問は、このゲリラ戦法を捨てさせて、自らの軍事力を過信して攻撃的な直接対決に切り替えます。当然、毛沢東と朱徳はこの判断に不満でしたが、仕方なく従います。
さて、このように共産党内部での対立がおさまらない中、蒋介石率いる国民党が全力を出してきます。
満州事変から2年後の1933年10月、100万の兵士と200機の戦闘機という圧倒的な戦力を備えた国民党軍の第五次掃討作戦が開始されます。
兵員数と兵器に劣るにも関わらず、正面対決をとった共産党は、当然のことながら連戦連敗を重ね、瑞金ソヴィエトの支配地域は徐々に失われていきました。
約一年にわたる持久戦を続けますが、このまま戦いを続けたのでは全軍の壊滅を免れないと考えた党の指導部は、1934年7月に瑞金の放棄を決定し、退却を開始しました。
【長征と遵義会議】
ここから共産党の、想像を絶する敗走が始まります。
いっせいに西へ西へ、そしてやがては北へ北へと逃走するのです。その総距離、なんとおよそ1万2000キロ以上!江西省の瑞金から陝西省の延安まで一年以上に及ぶものでした。これが有名な「長征」です。
この行軍は、現在も党の偉大な歴史のひとつとして有名ですが、紛れもない長期的な敗走であり、「長逃」と言った方が正確です。
長征では、共産党の軍団は、二つに分かれました。
ひとつが毛沢東の軍団で、東のルートをたどったので、東路軍と呼ばれます。もうひとつは共産党の主力部隊で、西路軍といいます。
しかし、西路軍は、青梅省せいかい近辺を制圧していたイスラム軍閥という勢力によって、全滅させられてしまいました。
長征への出発時、共産党軍はおよそ十万人。
しかし、終点である陝西省北部の延安に到達できたのは、わずか5千人ほどでした(所説あるが、数千人)。
ここまで人数が激減した主な理由としては、
①飢餓、過労による衰弱死
②脱走
③国民党軍による掃討
④イスラム軍閥による掃討
でしたが、加えて
⑤共産党内の内ゲバによる犠牲も甚大でした。
さて、1935年1月、長征の途中で、遵義会議というものが開かれます(遵義とは地名)。
この会議で重要なポイントとしては、コミンテルンの指示による正面突撃戦法の失敗が総括され、毛沢東の発言力が強くなったことです。
非常に過酷な道のりでしたが、この遵義会議以降、実質的な最高指導者の役割を務めた毛沢東の指導権が確立されました。共産党内における毛沢東の影響力は、長征以前とは比べ物にならないほどに増大したのです。
今回はここまでです。
次回は、日中戦争下で中国共産党がどう動いたのかという点を主に書いていく予定です。
【参考書籍】
池上彰『そうだったのか!中国』
楊海英『独裁の中国現代史』
山崎雅弘『中国共産党と人民解放軍』
譚ろ美『中国共産党を作った13人』