およそ9000万人という、世界第二位の党員数を誇ると言われる、世界最大級の政党、中国共産党。
国内の人権侵害も異常ですが、対外的にも覇権主義の色が出てきており、中国共産党に対して良いイメージを持っている日本国民はほぼ皆無かなと思います。
しかし、その歴史はあまり知らない人も多いのではないでしょうか。
何回かに分けて中共の歴史をまとめてみようと思います。
今回は、党の創立から上海クーデターという事件までです。
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【雑誌『新青年』】
中国共産党が創立されたのは、今からおよそ100年前、1921年、上海でのことです。
当時、中心的なキーパーソンだったのは、陳独秀と李大釗という人でした。
陳独秀という人は、1917年、北京大学の文科学長に就任するなど相当のインテリであり、また、1919年の五四運動の火付け役でもあるなど、まさに社会変革の最先頭にいる人物でした。もう一人の李大釗も、北京大学の教授であるなど、こちらも相当なインテリでした。
日本との関係で言うと、2人とも日本への留学経験者で、李大釗は早稲田大学に学んでいましたし、陳独秀は5回も日本に来ています。彼らの思想形成に少なからず日本も絡んでいると言うのは、ちょっと興味深いかもしれません。
陳独秀は、1915年「新青年」という、社会評論雑誌を上海で創刊します。
西欧的な民主主義や近代科学に基づく社会変革の必要性を、誌面を通じて若者に訴えかけました。儒教批判、家父長制批判、男女同権と一夫一婦制の主張など、当時としては斬新な主張を掲載します。
これは俄かに注目され発売部数も急増、全国的な人気雑誌に急成長します。
さて、そんな中、1917年11月に、とある歴史的事件が起きます。
ロシア10月革命ですね(ロシアの旧暦だと10月なので10月革命)。
10月革命が勃発すると、 雑誌「新青年」はいちはやくロシア革命の思想の特集を組みます。
共産主義体制を、中国が目指すべき社会改革の理想と位置づける李大釗の論文が掲載されたりします。
新青年は、共産主義思想を紹介する雑誌へと変化していくことになるわけです。
【一全大会】
さて、そんな中、中国でも動き始めた組織がありました。
コミンテルンです。コミンテルン、別名第三インターとは、1919年から1943年まで存在した国際共産主義運動の指導組織です。
コミンテルンは、中国における共産主義勢力の拠点として「新青年」周辺の人脈に目をつけたわけですね。
極東部長のボイチンスキーという人を中国に派遣して、陳独秀や李大釗らの有力者と会います。
中国の主要都市には既に小規模な共産主義者のグループがいくつも誕生しており、ボイチンスキーはそれらを結集させて「中国共産党」を創設しようと動きます。
彼の粘り強い仲介、そして資金援助によって、各地の共産主義者が結びついていきます。
そして、いくつか準備的な小会合を重ねたのち、ついに、今日の中国で「歴史的壮挙」として扱われることになる会議が開かれます。
それが、「中国共産党第一回全国代表大会」(略して一全大会)です。
これは1日で終わるのではなく、複数回の会議を重ねたものでした。
13人の同志が上海に集まったわけです。
(13人と書きましたが、)実は大きく12人説と13人説があるようでして、正確な人数は未だわかっていないようです。ここでは13人としておきます。中国人の13人に加えて、コミンテルンの代表としてマーリンとニコルスキーの2人、総勢15人での会議でした。
各地の代表が集まったわけで、全員の名前を覚える必要はないかと思いますが、ただひとり、こいつだけは忘れてはいけないという人物がいます。長沙代表の毛沢東です。当時28歳でした。
後に中華人民共和国建国を宣言し、大躍進政策や文化大革命で悪名高い毛沢東が一全大会に参加していたということは頭に入れておきましょう。ただし、この時は単なる一参加者で、特に重要な中心的な人物というわけではありませんでした。
一全大会の時の共産党員数は、たったの50人台でした。
今でこそ中国共産党の党員数は、およそ9000万人と超巨大組織であるわけですが、100年前は、このくらいの人数で、捕まらないように警察の目をしのびながらの活動でした。文字通り、秘密結社ですね。会議中に密偵の様な男が入ってきて、その日は速攻で解散したというのは有名なエピソードになっています。
【第一次国共合作とその崩壊】
一全大会で、初代の総書記(党首)には、陳独秀が選出されます。
彼は、当面の活動方針として、同じく中国国内で活動を開始していた「国民党」との連携を模索する姿勢をとったわけですが、これはコミンテルンの意向を色濃く受けたものでした。
同時に、コミンテルンは、孫文率いる中国国民党にも、資金援助などを条件として、中国共産党 と協力体制を取ることを提案しました。孫文はこれを了承。これによって、第一次国共合作が実現するわけです。ともに中国統一のため北方軍閥の打倒を図ります。このときのスローガンは、「連ソ・容共・扶助工農」でした。
第一次国共合作は、かなり特殊な形なんですけども、国民党に共産党員が個人として入党するという形がとられました。若き日の毛沢東も、国民党員、しかも幹部でした。
ところが、翌年に「中国革命の父」孫文が癌によって世を去ります。革命未だならずっていう言葉が有名です。
孫文の死後、国民党内で右派と左派の対立が深刻化します。
左派のトップが共産党と協調しようという路線の汪兆銘、そして右派のトップが反共で有名な蒋介石です。
結果的に権力争いに勝利し、実権を握ったのは、反共の蒋介石でした。
さて、北伐を進める中で、南京事件という事件が起きます。(※1937年の南京虐殺とは別です)。
一部の軍兵士が、反帝国主義ということで外国を追い出そうということで、日本含めた各国の領事館を襲撃します。
実際のところどうなのかはわかりませんが、蒋介石はこれを共産党の仕業と考えます。党員数を着実に伸ばしてきている共産党に対して危機感を覚えた蒋介石は、共産党との決定的な決別を決意します。
汪兆銘は介石と会談して共産党との和解を説得したが叶わず、汪はさらに共産党書記の陳独秀と話し合い、「共産党は国民党内で破壊行為を行う意志はない」という言質をとって「汪陳連合宣言」を発して介石を納得させようとしましたが、蒋介石は聞き入れませんでした。
彼は、国民党内部に共産党員が存在することを認めず、強硬な弾圧に踏み切ります。
上海クーデターという事件です。
四・一二事件(しいちにじけん)ともいわれますが、共産党に対する大弾圧で、多くの党員、労働者が死亡しました。
この背景としては、共産主義勢力の拡大を望まない列強諸国や、上海を本拠地にする金融資本である浙江財閥の思惑もありました。財閥からしたら共産主義は恐怖だったわけです。蒋介石自身も浙江財閥の1人であり、上海クーデター以降、結びつきはより強固になっていきます。そういえば結婚相手の宋美齢も財閥仲間でした。
上海クーデターから始まった共産党弾圧は、広州や北京など各地に広がり、中国共産党は冬の時代へと突入します。
打撃を受けた共産党は、1927年7月、全員が国民党から脱退します。こうして第一次国共合作は崩壊しました。
蒋介石は、国民党軍単独で軍閥との闘いに勝ち進み、1928年、ほぼ中国全土を統一。南京を首都にした国民党政権が成立しました。
※国民党左派が中心の武漢政府に対抗して南京に独自の国民政府を樹立したのは、クーデターから6日後の4月18日だった。9月には武漢の国民党左派と再統合して権力を確立する。
※蒋介石は北伐を一時中断を経て28年4月に再開、日本の第二次山東出兵(済南事件)による妨害を受けながら、最後まで敵対した軍閥・張作霖を破り北京を占拠した。日本は無用となった張作霖を爆殺したが、その息子の張学良は同年末、国民政府に服す。ここに北伐は完了、蒋介石の国民政府は中国統一を果たした。
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さて、最初期の中国共産党は、あくまで都市部のインテリとプロレタリアートの党でした。
一九二六年にはまだ千人規模だった党員が、二七年には五万八千人へと急増しています。その多くは工場で働く都市労働者でした。大学の先生や新聞記者、雑誌編集者といった知識人層も全体の五分の一ほどを占めていました。
この構造を一変させた人物、それが毛沢東です。
そうしたことは次回に紹介していきたいと思います。
今回は以上です。
【参考書籍】
池上彰『そうだったのか!中国』
楊海英『独裁の中国現代史』
山崎雅弘『中国共産党と人民解放軍』
譚ろ美『中国共産党を作った13人』