【自己満足まとめ:固定残業代の問題点】2015.12.2

今野晴貴著『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』を読まれた方は非常に多いと思う。「募集段階で労働条件をごまかし、大量の新規採用を行う。入社後は厳しい精神的・身体的・時間的負荷を労働者にかけ、会社にとって都合の良い者の選別を行う。大勢を囲いこみ、過酷な労働に耐えられる者を残す。大量の離職者が発生するが、その過程において目的に基づく高度に仕組まれた戦略的パワハラによって労働者を追い込み、法的リスクの低い自己都合退職へと誘導する」というのが一例だが、このブラック企業と密接に結びついている一要素とされるのが、固定残業代である。同書の第三章で、ブラック企業のパターンなるものが示されているが、ここでパターン①「月収を誇張する裏ワザ」として指摘されて いるのが固定残業代だ。

固定残業代とは残業代の定額払いで、これには大きく分けて二種類ある。基本給に残業代を含めるもの(組み込み型あるいは定額給制)と、基本給とは別に手当として残業代を払うもの(手当型あるいは定額手当制)だ。従来から、月に~万円などと残業手当を固定する方法(手当型)は広く行われてきた。これに対し、近年急速な広がりを見せるのが組み込み型だ。このような手口が増えた背景として、一部の専門家が「残業代節約術」としてこの仕組みを宣伝したという事情もあるようだ。

具体的事例としては次のようなものがある。
■給与明細をみたところ、契約の際に聞いていた金額と違った。契約書を受け取っていなかったため社長に契約書がほしいと伝えたところ、一九万円で契約していたはずなのに、そのなかに固定残業手当が四万三〇〇〇円含まれていたことがわかった。会社の顧問社労士に問い合わせたところ、「違法ではない」「説明不足ではあると思う」と相手にされなかった。かなり金額が異なるため、生活設計が狂い、困っている。
■「基本給二〇万円」の募集を見て入社したところ、実際には基本給一四万円、「固定残業代」六万円であったことが判明。本採用が決まった段階だったため、やむをえず提示された条件で契約した。
■新卒採用が数百名規模だったが、半年の時点ですでに同期が何人も辞めている。いつも日付が変わってから帰宅しており、朝方になってから帰宅することもある。残業時間は月に二〇〇時間前後。基本給が二二万円で、「固定残業代」として四〇時間分の残業代が含まれている。それ以上の残業代は出ていない。

気がついたら定額の残業代が組み込まれているという事例が後を絶たない。相談事例は氷山の一角。採用過程、契約段階、給与支払い時など、いつの間にか基本給と思っていた賃金のなかに一定額の残業代が含まれていることが明らかになるが、労使の交渉力格差の前に仕方なくその条件のもと働いている、そんな状況が山ほど存在すると思われる。

固定残業代は、それ自体違法な賃金制度とはいえない。例えば月四〇時間の時間外労働分をあらかじめ固定残業代として設定した場合、労働者が三八時間残業した時に四〇時間分を支払うのは全く適法である。しかし圧倒的多数の労働現場では、「どれだけ残業しても定額を支払う」システムとして機能していると考えられる。実際、それで適法だと誤解している労働者もいるかもしれない。しかし法的には定額働かせ放題パッケージという理解は成り立ちえず、違法である。設定された固定残業代を上回った時間外労働があれば、当然その分を支払わなければ労基法違反となるのであるから、固定残業代制をとっていようがいまいが、労働時間を管理する必要に変わりはない。であるにも関わらず、固定残業代を導入する企業の多くは殆どまともな労働時間の管理をしていないといってよい。考えてみればこれは珍妙怪奇な事態ではないか。
どういうことか。固定残業代の使用者側のメリットとして、残業代計算の煩雑さからの解放がある、と「される」。しかしこのメリットは、実は真面目に固定残業代を導入しようとすればするほど、本当は利点がない。例えば五万円の固定残業代を支払っている企業の場合、労働者の時間外労働時間に対する対価が、絶対的に五万円を下回るのであれば、確かに計算の煩雑さからは解放されるだろう。しかし、一般的に、固定残業代を決めるにあたっては、過去の実績を検討し、その平均値に近い数値を「固定」する。その場合は、労働者ごとに残業代が固定額を超えるか否かが微妙になるため、その時間を把握しなければならない。そうなると、結局、残業代計算から解放されないのである。したがって、まともに 固定残業代を運用すると、使用者にとってのメリットは殆どない。
にも関わらず、なぜ固定残業代がここまで話題になり、浸透しているのだろうか。これは固定残業代が正しく運用されていないことを逆に表しているといえる。本来であれば、残業代は固定で支払うより、そのつど計算して支払った方が人件費コストは少なくなるはずだ。

このように、おかしで誤った(もちろん違法な)運用がまかり通っているのが現在の労働状況といえる。このことを確認した上で、実際用いられている固定残業代の問題点を、特徴も交えながら見ていくこととする。

第一に、固定残業代の最初に目につく弊害としては、見た目の給料額に下駄をはかせる効果を持つことである。賃金とは、求職者、労働者が最も重視する条件のひとつだ。たとえば求人情報に基本給二二万とあったら一見悪くない額と思う。しかし実は残業代込みだったというのでは、労働条件の偽装に等しい。基本給が本来のものとは違う形で提示されることが一般化すると、求職者は自分の賃金がいくらなのかさえ一見してはわからない形で会社を選択しなければならない。こうして文章をまとめている私も、求人情報を前にして見破れる自信はまったくない。固定残業代は労働市場を攪乱させる。
こうした労働条件の偽装は、また低賃金労働を蔓延させることにもなる。本来は最低賃金ギリギリであるにも関わらず、あたかもそうではないかのように見せることが可能となるからだ。学生時代のアルバイトよりも卒業後就職してからの方が実は低賃金で労働していたという例も珍しくはない。おそらく使用者は、最低賃金から逆算して当該賃金を設定していると思われるが、固定残業代は、このような偽装により低賃金労働を蔓延させる危険性もある。自らの正確な労働時間を把握していなければ、そもそも低賃金であるかどうかさえの具体的計算もできない。

固定残業代制の問題点は、もちろん単なる月収の誇張にとどまらない。第二に、残業代の不払いに関わる問題がある。
以前から、日本の多くの企業は、残業代に関わる債務を逃れようとしてきた。労働犯罪大国において残業代不払いという事例は星の数ほどあるし、私自身もそういう会社に遭遇したことがある。中には「オレがルールだ」と言って憚らないワンマン社長の会社もあり、ここでは法律的なごまかしなどせず堂々と違法行為がなされている。だが「ある程度には遵法意識のある」企業では、合法であるかのような体裁をとることで残業代未払いを正当化することが行われている。例えば、名ばかり管理職として問題になったが、労基法41条の管理監督者に当たらない人を「管理職だから」などと強弁する手法、導入の手続きすら行っていないのに「裁量労働制だから」と称する手法がある。これらは、「残業代を法律的 に支払う必要がない」という論理である。それに対し固定残業代は、「残業代は既に支払っている」という主張を可能にする。このロジックの違いにも、固定残業代が好まれる理由がある。ブラック司業のささやく悪知恵的な工夫だ。
これは企業のリスクヘッジになる。曲がりなりにも残業代ということで支払いを行うため、万が一労働者から訴訟を起こされても、一部は支払っているという抗弁が可能となる。もちろん、必ずしもこの言い分が通るわけではないが、少なくとも抵抗してきた労働者を黙らせたり、交渉の材料にしたり、裁判を長引かせるなどの効果があるといえる。

第三に、長時間労働の助長という問題がある。前述した通り、固定残業代を導入する企業の多くは、「定額働かせ放題パッケージ」との自己都合的運用をしているため、殆どまともな労働時間の管理をしていない。したがって、労働者が長時間労働に及んでも、企業側は意に介さず、長時間労働が野放しにされる。それは、ひいては過労の温床となる。わが国には、労働時間の絶対的な上限が存在しない。これは労基法の極めて大きな欠陥だが、現行労働法制では残業代の支払いが長時間労働に対する殆ど唯一の歯止めになっていると言える。その残業代も、サービス残業という言葉がある様に、適切に支払われていないことが社会問題となっていることは論を待たない。固定残業代はそれを助長しかねない。労基法 改悪による高度プロフェッショナル制度もその意味で危険である。なお、固定残業代とホワイトカラーエグゼンプションの関係については、また別の機会にできれば触れたいと考えている。

以上の問題点を固定残業代は含んでおり、これはブラックな働かせ方と密接に関連している。

労働法律旬報 No.1824  佐々木亮『固定残業代と「ブラック企業」問題』
同上         川村遼平『相談事例から見る「固定残業代」の問題点』
今野晴貴『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』