ニイナ・美心(みひろ)・オーセンは学校から帰るところだった。
とちゅうまではジャスミンと一緒だ。
2人は道みちロボットの話をしていた。
ジャスミンは、人間の脳は複雑なコンピューターみたいなものだ、と言った。
ニイナはよくわからなかった。
人間は機械なんかより上なんじゃないかなあ。
スーパーのところで、2人は別れた。
ニイナの家は一戸建ての並んだ町はずれにあって、
学校からはジャスミンの家までのほとんど2倍も遠かった。
ニイナの家は、まるで世界の果てになるみたいだった。
庭のむこうにはもう家はなく、森が始まっていた。
ニイナはクローバー通りを曲がった。
通りのどんづまりは急なカーブになっていて、「船長のカーブ」と呼ばれている。
人はめったにとおらない。
とおるとしても土曜日か日曜日だけだった。
5月になってまだ日も浅く、
あちこちの庭ではラッパ水仙が果樹の根元にびっしりとよりそうように咲いていた。
白樺はうっすらと芽吹いて、まるですきとおる緑のヴェールをかぶったようだった。
この季節、なにもかもが芽吹き、いっせいに伸びはじめる。
どうして暖かくなって根雪が消えると、
死に絶えたような大地から緑の葉っぱや草が湧き出すのだろう?
考えると不思議な気がする。
門をあける前に、ニイナは郵便箱をのぞいた。
ふだんならダイレクトメールがどっさり、それから母宛の大きな封筒が何通か入っている。
ニイナはいつも、郵便物の束をキッチンのテーブルに置いてから、
宿題をしに自分の部屋に行くことにしていた。
父には、たまに銀行の口座残高通知がくるだけだった。
ニイナの父親はふつうの父親とは少しちがっていた。
大きな石油タンカーの船長で、ほとんど1年じゅう家を留守にしている。
何週間か帰ってきた時は、外出することもなく、ニイナや母と水入らずの時を過ごす。
けれども航海に出ているあいだは、ちょっぴり影が薄かった。
きょう、緑色の大きな郵便箱には小さな手紙が一通だけ。
それはニイナにきていた。
小さな封筒に、「ニイナ・ミヒロ・オーセン様」と書いてある。
「クローバー通り三番地」、それだけ。
差出人の名前はない。切手も貼ってない。
門をしめるとすぐ、ニイナは封をあけた。
なかには封筒よりひとまわり小さな紙切れが一枚入っているだけだった。
紙切れにはこう書いてあった。
あなたはだれ?
たったのこれだけ。
あいさつも、差出人の名前もなくて、手書きでこの六つの文字と、
大きなクエスチョンマークが書いてあるだけだった。
ニイナはもう一度、封筒を見た。
たしかにニイナ宛てだ。
こんなもの、いったいだれが郵便箱に入れたのだろう?
ニイナはいそいで赤い家のドアをあけた。
ドアをしめる前、いつものように猫のレオが茂みから現れて、
階段にぴょんと飛び乗り、するりとなかに入ってきた。
「ただいま、レオ!おりこうさんにしてた?」
ニイナの母親はちょっと機嫌が悪いと、この家はまるで動物園ね、と口癖のように言う。
動物園にはいろいろな動物がいるけれど、生き物が大好きなニイナもいろいろ飼っていた。
まず、水槽には金の巻き毛ちゃんと、赤ずきんと、まっ黒ペーターという名前の金魚がいた。
それからセキセイインコのトムとジェリー、亀のゴーヴィンダ、そして黄色と茶色のトラ猫レオ。
ニイナのさびしさを紛らわすのが、動物たちのお役目だった。
なぜなら、母は夕方にならないと仕事から帰ってこないし、
父はいつも世界のどこかを航行中だったから。
ニイナは通学バッグを投げ出すと、レオの前にキャットフードの皿を置いた。
それから謎の手紙を手に、キッチンの椅子に腰かけた。
あなたはだれ?
それがわかったら苦労はないわ!
もちろん、わたしはニイナ・美心・オーセン。
でも、それはどんな人?
まだよくわからない。
もしもほかの名前だったら?
たとえばアンネ・クヌートセンとか。
そうしたら、わたしは別の人になっていた?
ふいにニイナは、
「初めはヘレナという名前にしようかと思ったんだよ」
という父のことばを思い出した。
ニイナはだれかと握手をするふりをして、
「ヘレナ・オーセンです」
と自己紹介する自分を想像してみた-----だめ、そんなのだめ。
だとしたら、別のだれかさんが自己紹介してたってことになる。
ニイナははじけたように椅子から立ちあがると、
謎の手紙をもったまま、バスルームに行った。
そして鏡の前に立って、じっと目を見つめた。
「わたしはニイナ・ミヒロ・オーセンです」ニイナは声に出して言った。
鏡のなかの女の子は返事をしない。
表情一つ動かさない。
ニイナがなにかすると、まるで同じことをする。
ニイナはすばやく動いて、鏡の女の子を出し抜こうとした。
けれども、相手も同じだけすばやく動いた。
「あなたはだれ?」ニイナはたずねた。
やっぱり返事はない。
けれどもニイナは、今たずねたのは自分なのか、それとも鏡の女の子なのか、
一瞬わからなくなってしまった。
ニイナは鏡のまんなかを指さして、言った。
「わたしはあなた」
ニイナ・オーセンは、自分の顔がそんなに気に入ってはいなかった。
よく、アーモンドみたいに切れ長のきれいな目をしている、と言われるけれど、
ほめてもらえるのはそこだけ。
なぜなら、鼻は低いし、口も小さめだったから。
それに、目と目の間がちょっとだけだけど近かった。
最悪なのは、髪の毛にウェーブがかかっていないことだ。
ちっとも思うようにまとまらない。
父はよくニイナの髪を撫でながら、
「すなおないい髪だね」と言った。
パパったら、もう!
自分がわたしみたいな、てれんとした黒髪をもつ運命ではなかったものだから、
平気でそんなこと言うのよ。
ニイナの髪は、スプレーをかけてもジェルをつけても、どうにもかっこうがつかなかった。
ニイナは、自分の顔つきがおかしいと思っていた。
それで、生まれた時につごうの悪いことでもあったのでは、と考えることすらあった。
母も「あなたは難産でね」と言っていた。
でも、生まれ方が人の顔つきを決めるなんてことがあるかしら?
やっぱりわたしにはアジアの血も混ざっているからかしら?
自分がだれなのか知らないなんて、ちょっとへんじゃない?
それに、自分の顔なのに自分で決められないなんて、そんなのあり?
顔は生まれつき決まっている。
友達なら選べるのに、自分のことは自分で選んだわけじゃない。
人間になることだって、わたしが選んだんじゃない。
人間って何?
ニイナはもう一度、鏡の女の子を見た。
「ふうっ、そろそろ生物の宿題をしようかな」
ニイナは、なんだか自分に言い訳するように、声に出して言った。
そしてバスルームから出て玄関に立った時、
ふいに気が変わって、宿題はあとにして庭に行くことにした。
「レオ、お外に行くよ、レオ!」
ニイナは猫を表に呼び出して、ドアをしめた。
謎の手紙をもって外の砂利道に立っているうちに、ニイナは突然、奇妙な感覚に襲われた。
まるで自分が、魔法の力で生かされている人形のような気がしたのだ。
わたしはこの世界にいて、不思議な物語のなかを動きまわっている。
それって、なんだかへんね。
レオは優雅に砂利道を飛び越えて、そばの赤スグリの茂みに姿を消した。
元気な猫だ。
白い髭の先からよく動くしっぽの先まで、元気いっぱい。
レオは、ニイナが感じているこんなことなど、これっぽちも感じていないのだ。
ニイナはひとしきり、わたしはいる、と考えた。
すると、いつまでもいるわけじゃない、と考えないわけにはいかなかった。
今わたしはこの世界にいる。
でもいつかある日、わたしは消えてしまう。
死後の生はあるのだろうか?
この問いにも、猫にはさっぱりわからない。
ついこのあいだ、祖母が亡くなった。
それから半年以上、ニイナは毎日のように、祖母のいないさびしさを噛みしめたものだった。
命に終わりがあるなんて、そんなのあんまりだわ!
ニイナは砂利道に立ったまま考え込んだ。
わたしはいつまでも生きているわけではない、ということを忘れようとして、
いっしんに、わたしは生きている、とだけ考えようとした。
けれどもまつでだめだった。
わたしは生きている、と考えれば考えるほど、この命はいつか終わる、
という考えもすぐに浮かんでくる。
その反対でも同じだった。
わたしはある日すっかり消えてしまう、と強く実感して初めて、命はかぎりなく尊い、
という思いもこみあげてくる。
まるで一枚のコインの裏と表だ。
ニイナはそのコインを頭のなかでいつまでもひっくり返していた。
コインの片面がくっきりと見えれば見えるほど、もう片面もくっきりと見えてくる。
生と死は一つのことがらの両面なのだった。
人は、いつかはかならず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを
実感することもできない、とニイナは考えた。
そして、生のすばらしさを知らなければ、死ななければならないということを
じっくりと考えることもできない、と。
ニイナは、祖母が自分の病気を告げられた日に、似たようなことを言っていたのを思い出した。
「人生はなんて豊かなんでしょう、今ようやくわかった」
たいていの人が、生きることのすばらしさに気づくのが病気になってからだなんて、悲しい。
みんなが謎の手紙を郵便箱に見つければいいのに。
また手紙がきてないか、見たほうがいいかな?
ニイナは門に駆けよって、緑色の蓋をもちあげた。
そして、まったく同じ封筒を見つけて飛び上がった。
一通めを取った時、郵便箱は本当にもう空っぽかどうか、ちゃんと確かめてはずなのに。
この封筒も表書きはニイナの名前になっていた。
ニイナは封を破って、一通めとそっくりな白い紙を引っぱり出した。
世界はどこからきた?
そう書いてある。ぜんぜんわからない、とニイナは思った。
そんなこと、だれにもわかるわけがない!
なのにいっぽうで、この問いかけはもっともだ、とも思った。
ニイナは、世界がどこからきたのか、せめて問いかけもしないその世界に生きるなんて、
ほとんど不可能だ、と考えた。
でも、こんなことを考えるなんて、生まれて初めてだった。
二通の謎の手紙のために、ニイナは頭がくらくらしてきた。
それで、ほら穴に行くことにした。
ほら穴というのはニイナの秘密の隠れ家で、とても腹がたった時や、
悲しかったりうれしかったりした時、ニイナはそこにこもる。
きょうのニイナは、なにがなんだかわからなかった。
赤い家は広い庭に囲まれていて、庭のあちこちには花壇や、赤スグリや
ラズベリーの茂みや、いろいろなくだものの木があった。
広い芝生には背もたれつきのブランコがあった。
それから、祖父が祖母のためにつくった小さな四阿(あずまや)も。
二人の初めての子どもが、生まれてほんの数週間で死んでしまった時、
祖父はこれをつくった。
そのかわいそうな女の赤ちゃんはマリーと名づけられた。
お墓にこう書いてある。
「小さなマリー わたしたちのもとを訪れ 挨拶をしたのみにて また去りぬ」
庭の隅、ラズベリーの茂みの奥に、花も咲かない、実もつけない大きな藪があった。
もとは生け垣で、森との境になっていた。
けれどもここ二十年、ぜんぜん手入れをしなかったのでどんどん生い茂り、
とてもとおり抜けられそうにない藪になっていた。
お祖父さんが言っていたっけ。
「この生け垣は戦争ちゅう、庭で鶏を放し飼いにしていた時、
狐が入ってこれないようにしていたんだよ」
今では古い生け垣は、庭の隅に転がっている空っぽの兎小屋と同じように、
だれにも見向きもされない。
けれども、それはニイナの秘密を知らないからだ。
ニイナは今でも、生け垣にくぐり抜けられる小さな穴を見つけた時のことをよく覚えている。
もぐりこんでしばらく進むと、穴は大きく広がっている。
そこがニイナのほら穴なのだった。
ここならだれにも見つかる心配はない。
ニイナは二通の手紙をもって庭をつっきり、四つん這いになって生け垣をくぐった。
ほら穴はニイナがちゃんと立てるほど高かったが、
今は剥き出しの太い根っこに腰をおろした。
ここに座ると、枝や葉っぱのあいだの小さな二つの穴から外が見える。
穴はコインよりも小さいけれど、庭全体が見渡せた。
小さい頃、自分を捜して木立のあいだをあちこちする母や父を
ここからながめて面白がったものだ。
いつもニイナはこの庭を世界そのもののように思っていた。
聖書の「創世記」のエデンの園の話を聞くたびに、
自分のほら穴と、そこからながめるニイナの小さな世界を思い浮かべた。
世界はどこからきた?
そんなこと、ぜんぜんわからない。
もちろんニイナは、
この世界がとてつもなく大きな宇宙のほんの小さな惑星だということは知っていた。
でも、宇宙はどこからきたのだろう?
もちろん、宇宙はずっと前からあった、と考えてもいい。
そうすれば、宇宙はどこからきたのか、という問いに答えなくてすむ。
だけど、何かが永遠に続くなんてありだろうか?
ニイナのなかで何かが、そんなのおかしい、と言った。
あるものにはすべて、始まりがあるはずだ。
だったら、宇宙もいつか何かから生まれたのだ。
でも、もしも宇宙が何かほかのものから生まれたのだとしたら、
その何かほかのものもいつかもっと何かほかのものから生まれたということになる。
ニイナは、この問いはどこまで行ってもきりがない、と思った。
とにかく、いつか何かが無から生まれたはず。
でも、そんなことってあり?
こんな考えは、世界はずっと前からあったというのと同じくらい、まちがっているんじゃない?
宗教の時間に、神が世界を創造した、と教わった。
ニイナは、まあいろいろあるけれど、
この問題に決着をつけるにはそう考えるのがいちばんいい、と納得しようとした。
なのに、ニイナはまた考えはじめてしまった。
神が世界を創造した、というのはいい。
でも、神自身は?
神は自分を無からつくった?
また何かがニイナのなかで、そんなのおかしい、と言った。
たしかに神はあらゆるものをつくれるかもしれない。
でも神自身がいて、それで初めて創造できるわけで、
その神自身が存在する前に自分自身をつくれるはずがない。
とすると、考えられるのはあと一つ。
つまり、神はずっと前からいたのだ。
けれどもこの考えも、ニイナはもう捨てていた。
あるものにはすべて始まりがあるはずなのだった。
「いやんなっちゃう!」
もう一度、ニイナは二つの封筒をあけた。
「あなたはだれ?」
「世界はどこからきた?」
なんてくだらない質問!いったいこの二通の手紙はどこからきたのだろう?
それこそ本当に謎だった。
ニイナをありふれた日常からひきさらい、突然、宇宙などという大問題をつきつけたのは、
いったいだれなのだろう?
ニイナは郵便箱を見に行った。これで三度めだ。
こんどは郵便配達がふつうの郵便をもってきていた。
ニイナは一抱えほどもあるダイレクトメールと、新聞と、それから母宛の二通の手紙を取り出した。
絵はがきも一通、混ざっていた。
どこか南の国の海岸の写真だ。
ニイナ絵はがきを裏返してみた。
切手はノルウェイのもので、国連軍のスタンプがおしてある。
パパから?でもパパがいるのはこんなところじゃないんじゃなかった?
それに、これはパパの字じゃない。
宛名に目を走らせるうちに、ニイナは胸がドキドキしてきた。
「ニイナ・ミヒロ・オーセン様方、ルーシー・ハドソン様、クローバー通り三番地・・・・・」
住所はあっている。はがきはこう書いてあった。
《愛するルーシー
15歳のお誕生日おめでとう。パパはルーシーに、
なにかおとなになるのに役立つような
プレゼントをしたいと思っている。
このはがきはニイナに送る。そうするのがいちばん
手っとり早かったのだ。
愛してるいるよ パパ》
ニイナは家に駆けもどり、キッチンに飛びこんだ。
まるで体のなかで嵐が荒れ狂っているみたいだった。
まただわ、これはいったいなんなの?
ルーシーってだれ?
ニイナよりも丸まる一ヶ月早く15歳になるらしいこの子は?
ニイナは玄関から電話帳をもってきた。
ハドソンという人はいっぱいいた。
ニイナはもう一度、謎の絵はがきをまじまじと見つめた。
でも、切手もスタンプも、どこもおかしなところはない。
どうしてこの父親はバースデイ・カードをニイナの住所なんかに送りつけたのだろう?
ぜんぜんちがうところに送るべきでしょう?
カードをお門違いのところに送って、誕生日に娘をがっかりさせる父親なんているかしら?
「いちばん手っとり早かったのだ」って、どういうこと?
それにしても、どうやってルーシーという子を捜したらいいのだろう?
頭をかかえる問題がまた増えた。
ニイナはもう一度、頭のなかを整理しようとした。
昼下がりのほんのひとときに、三つもの謎をつきつけられたのだ。
第一の謎は、二通の白い封筒をニイナの家の郵便箱に入れたのはだれか、ということ。
第二の謎は、その二通が投げかけるむずかしい問題。
第三の謎は、ルーシー・ハドソンとはだれか、なぜニイナがこの見知らぬ女の子の
バースデイ・カードを受けとったのか、ということ。
三つの謎はきっとどこかでつながっている-----そう、ニイナは確信した。
なぜなら、それまでニイナは、謎なんて一つもない、ごくふつうの毎日を送っていたのだから。
とちゅうまではジャスミンと一緒だ。
2人は道みちロボットの話をしていた。
ジャスミンは、人間の脳は複雑なコンピューターみたいなものだ、と言った。
ニイナはよくわからなかった。
人間は機械なんかより上なんじゃないかなあ。
スーパーのところで、2人は別れた。
ニイナの家は一戸建ての並んだ町はずれにあって、
学校からはジャスミンの家までのほとんど2倍も遠かった。
ニイナの家は、まるで世界の果てになるみたいだった。
庭のむこうにはもう家はなく、森が始まっていた。
ニイナはクローバー通りを曲がった。
通りのどんづまりは急なカーブになっていて、「船長のカーブ」と呼ばれている。
人はめったにとおらない。
とおるとしても土曜日か日曜日だけだった。
5月になってまだ日も浅く、
あちこちの庭ではラッパ水仙が果樹の根元にびっしりとよりそうように咲いていた。
白樺はうっすらと芽吹いて、まるですきとおる緑のヴェールをかぶったようだった。
この季節、なにもかもが芽吹き、いっせいに伸びはじめる。
どうして暖かくなって根雪が消えると、
死に絶えたような大地から緑の葉っぱや草が湧き出すのだろう?
考えると不思議な気がする。
門をあける前に、ニイナは郵便箱をのぞいた。
ふだんならダイレクトメールがどっさり、それから母宛の大きな封筒が何通か入っている。
ニイナはいつも、郵便物の束をキッチンのテーブルに置いてから、
宿題をしに自分の部屋に行くことにしていた。
父には、たまに銀行の口座残高通知がくるだけだった。
ニイナの父親はふつうの父親とは少しちがっていた。
大きな石油タンカーの船長で、ほとんど1年じゅう家を留守にしている。
何週間か帰ってきた時は、外出することもなく、ニイナや母と水入らずの時を過ごす。
けれども航海に出ているあいだは、ちょっぴり影が薄かった。
きょう、緑色の大きな郵便箱には小さな手紙が一通だけ。
それはニイナにきていた。
小さな封筒に、「ニイナ・ミヒロ・オーセン様」と書いてある。
「クローバー通り三番地」、それだけ。
差出人の名前はない。切手も貼ってない。
門をしめるとすぐ、ニイナは封をあけた。
なかには封筒よりひとまわり小さな紙切れが一枚入っているだけだった。
紙切れにはこう書いてあった。
あなたはだれ?
たったのこれだけ。
あいさつも、差出人の名前もなくて、手書きでこの六つの文字と、
大きなクエスチョンマークが書いてあるだけだった。
ニイナはもう一度、封筒を見た。
たしかにニイナ宛てだ。
こんなもの、いったいだれが郵便箱に入れたのだろう?
ニイナはいそいで赤い家のドアをあけた。
ドアをしめる前、いつものように猫のレオが茂みから現れて、
階段にぴょんと飛び乗り、するりとなかに入ってきた。
「ただいま、レオ!おりこうさんにしてた?」
ニイナの母親はちょっと機嫌が悪いと、この家はまるで動物園ね、と口癖のように言う。
動物園にはいろいろな動物がいるけれど、生き物が大好きなニイナもいろいろ飼っていた。
まず、水槽には金の巻き毛ちゃんと、赤ずきんと、まっ黒ペーターという名前の金魚がいた。
それからセキセイインコのトムとジェリー、亀のゴーヴィンダ、そして黄色と茶色のトラ猫レオ。
ニイナのさびしさを紛らわすのが、動物たちのお役目だった。
なぜなら、母は夕方にならないと仕事から帰ってこないし、
父はいつも世界のどこかを航行中だったから。
ニイナは通学バッグを投げ出すと、レオの前にキャットフードの皿を置いた。
それから謎の手紙を手に、キッチンの椅子に腰かけた。
あなたはだれ?
それがわかったら苦労はないわ!
もちろん、わたしはニイナ・美心・オーセン。
でも、それはどんな人?
まだよくわからない。
もしもほかの名前だったら?
たとえばアンネ・クヌートセンとか。
そうしたら、わたしは別の人になっていた?
ふいにニイナは、
「初めはヘレナという名前にしようかと思ったんだよ」
という父のことばを思い出した。
ニイナはだれかと握手をするふりをして、
「ヘレナ・オーセンです」
と自己紹介する自分を想像してみた-----だめ、そんなのだめ。
だとしたら、別のだれかさんが自己紹介してたってことになる。
ニイナははじけたように椅子から立ちあがると、
謎の手紙をもったまま、バスルームに行った。
そして鏡の前に立って、じっと目を見つめた。
「わたしはニイナ・ミヒロ・オーセンです」ニイナは声に出して言った。
鏡のなかの女の子は返事をしない。
表情一つ動かさない。
ニイナがなにかすると、まるで同じことをする。
ニイナはすばやく動いて、鏡の女の子を出し抜こうとした。
けれども、相手も同じだけすばやく動いた。
「あなたはだれ?」ニイナはたずねた。
やっぱり返事はない。
けれどもニイナは、今たずねたのは自分なのか、それとも鏡の女の子なのか、
一瞬わからなくなってしまった。
ニイナは鏡のまんなかを指さして、言った。
「わたしはあなた」
ニイナ・オーセンは、自分の顔がそんなに気に入ってはいなかった。
よく、アーモンドみたいに切れ長のきれいな目をしている、と言われるけれど、
ほめてもらえるのはそこだけ。
なぜなら、鼻は低いし、口も小さめだったから。
それに、目と目の間がちょっとだけだけど近かった。
最悪なのは、髪の毛にウェーブがかかっていないことだ。
ちっとも思うようにまとまらない。
父はよくニイナの髪を撫でながら、
「すなおないい髪だね」と言った。
パパったら、もう!
自分がわたしみたいな、てれんとした黒髪をもつ運命ではなかったものだから、
平気でそんなこと言うのよ。
ニイナの髪は、スプレーをかけてもジェルをつけても、どうにもかっこうがつかなかった。
ニイナは、自分の顔つきがおかしいと思っていた。
それで、生まれた時につごうの悪いことでもあったのでは、と考えることすらあった。
母も「あなたは難産でね」と言っていた。
でも、生まれ方が人の顔つきを決めるなんてことがあるかしら?
やっぱりわたしにはアジアの血も混ざっているからかしら?
自分がだれなのか知らないなんて、ちょっとへんじゃない?
それに、自分の顔なのに自分で決められないなんて、そんなのあり?
顔は生まれつき決まっている。
友達なら選べるのに、自分のことは自分で選んだわけじゃない。
人間になることだって、わたしが選んだんじゃない。
人間って何?
ニイナはもう一度、鏡の女の子を見た。
「ふうっ、そろそろ生物の宿題をしようかな」
ニイナは、なんだか自分に言い訳するように、声に出して言った。
そしてバスルームから出て玄関に立った時、
ふいに気が変わって、宿題はあとにして庭に行くことにした。
「レオ、お外に行くよ、レオ!」
ニイナは猫を表に呼び出して、ドアをしめた。
謎の手紙をもって外の砂利道に立っているうちに、ニイナは突然、奇妙な感覚に襲われた。
まるで自分が、魔法の力で生かされている人形のような気がしたのだ。
わたしはこの世界にいて、不思議な物語のなかを動きまわっている。
それって、なんだかへんね。
レオは優雅に砂利道を飛び越えて、そばの赤スグリの茂みに姿を消した。
元気な猫だ。
白い髭の先からよく動くしっぽの先まで、元気いっぱい。
レオは、ニイナが感じているこんなことなど、これっぽちも感じていないのだ。
ニイナはひとしきり、わたしはいる、と考えた。
すると、いつまでもいるわけじゃない、と考えないわけにはいかなかった。
今わたしはこの世界にいる。
でもいつかある日、わたしは消えてしまう。
死後の生はあるのだろうか?
この問いにも、猫にはさっぱりわからない。
ついこのあいだ、祖母が亡くなった。
それから半年以上、ニイナは毎日のように、祖母のいないさびしさを噛みしめたものだった。
命に終わりがあるなんて、そんなのあんまりだわ!
ニイナは砂利道に立ったまま考え込んだ。
わたしはいつまでも生きているわけではない、ということを忘れようとして、
いっしんに、わたしは生きている、とだけ考えようとした。
けれどもまつでだめだった。
わたしは生きている、と考えれば考えるほど、この命はいつか終わる、
という考えもすぐに浮かんでくる。
その反対でも同じだった。
わたしはある日すっかり消えてしまう、と強く実感して初めて、命はかぎりなく尊い、
という思いもこみあげてくる。
まるで一枚のコインの裏と表だ。
ニイナはそのコインを頭のなかでいつまでもひっくり返していた。
コインの片面がくっきりと見えれば見えるほど、もう片面もくっきりと見えてくる。
生と死は一つのことがらの両面なのだった。
人は、いつかはかならず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを
実感することもできない、とニイナは考えた。
そして、生のすばらしさを知らなければ、死ななければならないということを
じっくりと考えることもできない、と。
ニイナは、祖母が自分の病気を告げられた日に、似たようなことを言っていたのを思い出した。
「人生はなんて豊かなんでしょう、今ようやくわかった」
たいていの人が、生きることのすばらしさに気づくのが病気になってからだなんて、悲しい。
みんなが謎の手紙を郵便箱に見つければいいのに。
また手紙がきてないか、見たほうがいいかな?
ニイナは門に駆けよって、緑色の蓋をもちあげた。
そして、まったく同じ封筒を見つけて飛び上がった。
一通めを取った時、郵便箱は本当にもう空っぽかどうか、ちゃんと確かめてはずなのに。
この封筒も表書きはニイナの名前になっていた。
ニイナは封を破って、一通めとそっくりな白い紙を引っぱり出した。
世界はどこからきた?
そう書いてある。ぜんぜんわからない、とニイナは思った。
そんなこと、だれにもわかるわけがない!
なのにいっぽうで、この問いかけはもっともだ、とも思った。
ニイナは、世界がどこからきたのか、せめて問いかけもしないその世界に生きるなんて、
ほとんど不可能だ、と考えた。
でも、こんなことを考えるなんて、生まれて初めてだった。
二通の謎の手紙のために、ニイナは頭がくらくらしてきた。
それで、ほら穴に行くことにした。
ほら穴というのはニイナの秘密の隠れ家で、とても腹がたった時や、
悲しかったりうれしかったりした時、ニイナはそこにこもる。
きょうのニイナは、なにがなんだかわからなかった。
赤い家は広い庭に囲まれていて、庭のあちこちには花壇や、赤スグリや
ラズベリーの茂みや、いろいろなくだものの木があった。
広い芝生には背もたれつきのブランコがあった。
それから、祖父が祖母のためにつくった小さな四阿(あずまや)も。
二人の初めての子どもが、生まれてほんの数週間で死んでしまった時、
祖父はこれをつくった。
そのかわいそうな女の赤ちゃんはマリーと名づけられた。
お墓にこう書いてある。
「小さなマリー わたしたちのもとを訪れ 挨拶をしたのみにて また去りぬ」
庭の隅、ラズベリーの茂みの奥に、花も咲かない、実もつけない大きな藪があった。
もとは生け垣で、森との境になっていた。
けれどもここ二十年、ぜんぜん手入れをしなかったのでどんどん生い茂り、
とてもとおり抜けられそうにない藪になっていた。
お祖父さんが言っていたっけ。
「この生け垣は戦争ちゅう、庭で鶏を放し飼いにしていた時、
狐が入ってこれないようにしていたんだよ」
今では古い生け垣は、庭の隅に転がっている空っぽの兎小屋と同じように、
だれにも見向きもされない。
けれども、それはニイナの秘密を知らないからだ。
ニイナは今でも、生け垣にくぐり抜けられる小さな穴を見つけた時のことをよく覚えている。
もぐりこんでしばらく進むと、穴は大きく広がっている。
そこがニイナのほら穴なのだった。
ここならだれにも見つかる心配はない。
ニイナは二通の手紙をもって庭をつっきり、四つん這いになって生け垣をくぐった。
ほら穴はニイナがちゃんと立てるほど高かったが、
今は剥き出しの太い根っこに腰をおろした。
ここに座ると、枝や葉っぱのあいだの小さな二つの穴から外が見える。
穴はコインよりも小さいけれど、庭全体が見渡せた。
小さい頃、自分を捜して木立のあいだをあちこちする母や父を
ここからながめて面白がったものだ。
いつもニイナはこの庭を世界そのもののように思っていた。
聖書の「創世記」のエデンの園の話を聞くたびに、
自分のほら穴と、そこからながめるニイナの小さな世界を思い浮かべた。
世界はどこからきた?
そんなこと、ぜんぜんわからない。
もちろんニイナは、
この世界がとてつもなく大きな宇宙のほんの小さな惑星だということは知っていた。
でも、宇宙はどこからきたのだろう?
もちろん、宇宙はずっと前からあった、と考えてもいい。
そうすれば、宇宙はどこからきたのか、という問いに答えなくてすむ。
だけど、何かが永遠に続くなんてありだろうか?
ニイナのなかで何かが、そんなのおかしい、と言った。
あるものにはすべて、始まりがあるはずだ。
だったら、宇宙もいつか何かから生まれたのだ。
でも、もしも宇宙が何かほかのものから生まれたのだとしたら、
その何かほかのものもいつかもっと何かほかのものから生まれたということになる。
ニイナは、この問いはどこまで行ってもきりがない、と思った。
とにかく、いつか何かが無から生まれたはず。
でも、そんなことってあり?
こんな考えは、世界はずっと前からあったというのと同じくらい、まちがっているんじゃない?
宗教の時間に、神が世界を創造した、と教わった。
ニイナは、まあいろいろあるけれど、
この問題に決着をつけるにはそう考えるのがいちばんいい、と納得しようとした。
なのに、ニイナはまた考えはじめてしまった。
神が世界を創造した、というのはいい。
でも、神自身は?
神は自分を無からつくった?
また何かがニイナのなかで、そんなのおかしい、と言った。
たしかに神はあらゆるものをつくれるかもしれない。
でも神自身がいて、それで初めて創造できるわけで、
その神自身が存在する前に自分自身をつくれるはずがない。
とすると、考えられるのはあと一つ。
つまり、神はずっと前からいたのだ。
けれどもこの考えも、ニイナはもう捨てていた。
あるものにはすべて始まりがあるはずなのだった。
「いやんなっちゃう!」
もう一度、ニイナは二つの封筒をあけた。
「あなたはだれ?」
「世界はどこからきた?」
なんてくだらない質問!いったいこの二通の手紙はどこからきたのだろう?
それこそ本当に謎だった。
ニイナをありふれた日常からひきさらい、突然、宇宙などという大問題をつきつけたのは、
いったいだれなのだろう?
ニイナは郵便箱を見に行った。これで三度めだ。
こんどは郵便配達がふつうの郵便をもってきていた。
ニイナは一抱えほどもあるダイレクトメールと、新聞と、それから母宛の二通の手紙を取り出した。
絵はがきも一通、混ざっていた。
どこか南の国の海岸の写真だ。
ニイナ絵はがきを裏返してみた。
切手はノルウェイのもので、国連軍のスタンプがおしてある。
パパから?でもパパがいるのはこんなところじゃないんじゃなかった?
それに、これはパパの字じゃない。
宛名に目を走らせるうちに、ニイナは胸がドキドキしてきた。
「ニイナ・ミヒロ・オーセン様方、ルーシー・ハドソン様、クローバー通り三番地・・・・・」
住所はあっている。はがきはこう書いてあった。
《愛するルーシー
15歳のお誕生日おめでとう。パパはルーシーに、
なにかおとなになるのに役立つような
プレゼントをしたいと思っている。
このはがきはニイナに送る。そうするのがいちばん
手っとり早かったのだ。
愛してるいるよ パパ》
ニイナは家に駆けもどり、キッチンに飛びこんだ。
まるで体のなかで嵐が荒れ狂っているみたいだった。
まただわ、これはいったいなんなの?
ルーシーってだれ?
ニイナよりも丸まる一ヶ月早く15歳になるらしいこの子は?
ニイナは玄関から電話帳をもってきた。
ハドソンという人はいっぱいいた。
ニイナはもう一度、謎の絵はがきをまじまじと見つめた。
でも、切手もスタンプも、どこもおかしなところはない。
どうしてこの父親はバースデイ・カードをニイナの住所なんかに送りつけたのだろう?
ぜんぜんちがうところに送るべきでしょう?
カードをお門違いのところに送って、誕生日に娘をがっかりさせる父親なんているかしら?
「いちばん手っとり早かったのだ」って、どういうこと?
それにしても、どうやってルーシーという子を捜したらいいのだろう?
頭をかかえる問題がまた増えた。
ニイナはもう一度、頭のなかを整理しようとした。
昼下がりのほんのひとときに、三つもの謎をつきつけられたのだ。
第一の謎は、二通の白い封筒をニイナの家の郵便箱に入れたのはだれか、ということ。
第二の謎は、その二通が投げかけるむずかしい問題。
第三の謎は、ルーシー・ハドソンとはだれか、なぜニイナがこの見知らぬ女の子の
バースデイ・カードを受けとったのか、ということ。
三つの謎はきっとどこかでつながっている-----そう、ニイナは確信した。
なぜなら、それまでニイナは、謎なんて一つもない、ごくふつうの毎日を送っていたのだから。