私は、こうした。 | 初心者同志

私は、こうした。

それは早朝のことだった。

私は歩いていると、突然、人に呼び止められたんだ。


振り向くと、パジャマ姿の60代くらいの男性が立っていた。


「あんた、携帯電話持ってないか?」


と、その男性は突然、私に訊ねてきた。

意味が分からなくて、どうしてですか、と私が聞き返すと、

男性は道を先を指差して、


「あそこに、人が倒れてるんだ」


という。


見ると、うん、確かに人が、道に倒れている。

私は、思わず笑ってしまいそうになった。


だって、その男性の背後にはぽっかりと玄関の扉が開いていて、

ああ、この人はきっと、新聞か牛乳でも取りに

自宅から外に出てきた所だったんだな、と分かったからだ。


その男性が私になにを言いたいのかも、すぐにわかった。

つまり、私に電話をしてもらいたいんだ。

そして、警察でも、救急車でもいいから呼んで欲しいのだ。


でも、だったら、なぜこの人は、すぐにでも自分の家に

駆け込んで、電話をしようとしないのだろう。


なぜ、それを見ず知らずの、偶然そこを通りかかった私に、

やらせようとしたのだろう。


理由はきっと簡単で、厄介事に巻き込まれるのを、

その男性は恐れているんだろうな、と私は思った。


だから、私は笑ってしまいそうになった。


ここまで露骨に、しかもまったくの赤の他人に、物事を押し付けようとする

その人が、少し可哀想にさえ思えた。


とはいえ、人が道に倒れているのも事実だ。


考えてみれば、その男性だって、

朝起きて、まだ覚めきらない頭で外に出てきてみたら、

いきなり、家のすぐ前の道端に人が倒れているんだから、

動揺するのも当然なのかも知れないなあ。


まあ、だからって、ちょうどそこを通りかかった私を

頼るのもどうかと思うけどさ。


そもそも、考えてみたら、最初からおかしいんだ。


その男性、あそこに人が倒れてる、て指をさして私に言うんだよ。

普通、人が倒れているのを見つけたなら、

せめて、駆け寄るくらいはするんじゃないだろうか。


でも、その男性は離れたところから、見ず知らずの私に、

ただ、人が倒れているのを教えるだけなんだもん。

私が思わず、のんびりと、しかも笑ってしまったのは、

そんな理由からだったのだけど、もちろん、もう一つ理由があった。


それは、そのときにはすでに、

私はもう、人が道端で倒れているのを見ることが、

珍しくなくなっていたのだ。


あの、深夜の日。



最初はただのゴミ袋だと思っていた、それが、

横になって倒れている人の影だとわかった私は、

すさまじい緊張と、激しく動悸する心臓の音を感じていた。


私はその人に近づいていった。

理由は、近づいていくしかなかったからだ。

私の家は、倒れているその人の道の先にあった。


その人はピクリとも動かなかった。

遠くからその影を発見し、それから私が近づいていあいだも、

それはずっと変わらなかった。


足を止める度胸は、私にはなかった。

止めるということは、どうするかを決断するということだ。


私はどうしたらいいか、わからなかった。

だから、歩き続け、その人に近づき続けた。


そして、本当にどうしようかと思ったとき、

その人に、もう手を伸ばせば届くだろう、という距離に来たとき、

私はそれに気づいた。


音だ。

なにかが震えるようにして鳴っている音。


なんだろう?


どこかで、聞いた事もあるような気がする。

お腹に響いてくるような音。

お腹・・・・・・。


私は気づいた。

それは、いびきだった。


私の目の前にいる、倒れた男性から聞こえてきていた。


このときの、私の全身の内側で起きた

急激ないくつもの変化を、すべて説明するのはとても難しいと思う。


緊張は一瞬で消え失せ、恐怖は余裕に変わり、

迷いはいくつもの楽しげな選択肢へと変わっていったのだった。


結局、その人は酔って、気づいたら道の真ん中で

眠ってしまっていただけだった。

ピクリとも動かないほどの熟睡だ。

私は、昏睡、といったほうがいいかも知れない、と思った。


その男性は、まだ酔いは残っていたようだったけど、

一度眠ったからか、立ち上がると、

結構しっかりとした足取りで、そのまま帰っていった。


どうやら、暑い夜には、路面のヒンヤリとした冷たさは

特に酔った人間にとっては、とても魅力的であるらしい。


ひとけのない道の真ん中で、堂々と眠むるような人は、

さすがにその人くらいだったけれど、

道で眠っている人を見ることは、そのあとも度々あって、

私はすっかりとその光景に慣れてしまうことになった。


だから、早朝のその日。

知らないおじさんに、人が倒れている、と言われても、

私は笑ってしまったのだった。


倒れているんじゃない、あれは眠っているんだ。

私はその男性に近づいていった。

肩を叩いてやる。


一言、二言、話しかける。


男性は目を覚まし、ムクリと起き上がると、

私に声のほとんど出てない礼を言って、

フラフラと歩いて去っていった。


バシャマ姿のおじさんは呆然としていたようだ。

死人が生き返ったように思えたのかもしれない。


あるいは、厄介事に巻き込まれなくて済んだ、と

ホッとしていたのかも知れない。


私には、そのどちらの気持ちも理解できた。

まさに、私自身も同じ体験をして、同じ思いにかられたのだから。


ただ、私はその、自分の父よりも年上だろう、

おじさんのいるところに戻って、なんとなく、言ってあげたい気持ちに

なってしまったのも事実だった。


「あのね、どんなことも、経験なんですよ」



もちろん、可能なら、あの日の夜の私にも、

ぜひ、言ってやりたい、と思ったのだった。