桃の幻想。
世界で一番美味しい食べ物は、なんだと思う?
と、もし訊かれたら、
私はそれは、桃だと答える。
もちろん、普通に買ってきた桃も好きだけど、
私が過去に食べた桃には、世界で一番だと言い切れるくらいの
衝撃と、感動を与えてくれたことがあるんだ。
私の家の遠い親戚にあたるおじさんは、桃農家をやっていた。
夏になると、ときどき自分たちの作った桃を送ってきてくれて、
家族はみんな、それを楽しみにしていたのだ。
あるとき、父親が、その人のところへ桃狩りに行かないか、と提案した。
決して、気軽に行けるような距離ではないのだけど、
父は新車を購入したばかりで、それを運転したかったみたいだ。
私たち家族は全員で、夏の暑い日、窓を全開に開けて、
かなりの長いドライブを楽しんだ。
ようやく、おじさん宅に着いたとき、すでに昼を過ぎていた。
長距離の移動と、かなり朝早くに家を出発したこともって、
私は眠気で頭はフラフラとするし、クタクタに疲れていた気もする。
おじさんの家は、山のすぐ麓にあって、その周り一面に
立っている木は、すべて桃の木だった。
とにかく、見渡す限り、目に映るものはすべて桃の木だ。
私たちはおじさんに案内されて、そんな桃の木の下を歩いた。
木になっている桃には、すでに袋がけがされていて、
桃の実を直接見ることはできなかった。
でも、あたりは桃の甘い匂いで満たされていて、
私はまるで、桃のジュースの中を泳いでいるような気分だった。
おじさんは、一つの木の下まで連れて行くと、
今なら、この実のやつは美味しいぞ、と私たちに教えてくれた。
私たちは、自分の手でそれぞれ教えてもらった桃の実をとり、
さらに、おじさんの後についていった。
おじさんが連れてきたのは、山からの湧き水が、
小さな渓流のようになって流れてきている場所だった。
手を入れてみると、まるで氷の中に突っ込んだのかと思うくらい冷たい。
その日は、立っているだけで、ジワジワと汗がにじむような熱い夏だった。
でも、そこだけは、山から降りてくる涼しげな風が吹いていて、
とても心地いい。
私たちはその透きとおって底まで見えるような清流で桃を洗い、
皮を少しだけ剥いて、おじさんに薦められるまま、桃の実にかぶりついた。
噛んだ瞬間、実はプツリと口の中で弾けて、桃の果汁で溢れた。
実の表面は、山の湧き水に冷やされて締まっていて、
かみ締めると少しの抵抗だけ残して、内側にたどり着いた。
まるで無限に湧き出てくるのかと思うほど、
内側の実からは、桃の果汁がどんどんと溢れてきて、
食感のいい実と、その果汁が口の中でいっぱいになると、
喉がそれらを渾然一体にして、飲み込んでいく。
私たちは、あっという間に一つの実を食べつくしてしまった。
それは、今まで経験したことがない衝撃で、
私があまりに必死になって食べるからか、
横で見ていた父親とおじさんは、とても楽しそうに笑っていた。
好きなだけ食べていいよ、とおじさんは言ってくれたのだけど、
私はその一個であまりにも満足してしまって、
食べたくても、食べられなかった。
それに、これからたくさん貰って帰るんだから、
家に帰ってからでも、好きなだけ食べられるもんな、
と、子供ながらに、計算高く考えたということもあった。
実際、おじさんは、食べきれないのでは、というくらい、
本当にたくさんの桃を、木の箱に詰めて、私たちに持たせてくれて、
あんなに美味しかった桃を、私はこれから、
こんなにたくさん食べられるのか、と、私は夢のような
気持ちになったのを覚えている。
帰り道、さすがに睡魔に勝てず、私は眠ってしまった。
家に着き、そのままベッドに直行してまた眠り、
その翌日、私は早速、昨日持ち帰った桃を食べてみることにした。
もちろん、あのとき口にしたあの味を、
また早く、味わいたかったのだ。
水道の水で洗い、早速、かじってみた。
美味しい。
けど、あの、おじさんの家で食べたときのような感動はない。
美味しいけれど、信じられないような、驚くほどの美味しさではない。
私は手のひらの上の桃を見つめ、
なんだか、夢を見ていたような気分になって、
実はおじさんの家になども、私は行ってなくて、
これも、実はスーパーに売っていた普通の桃とかじゃないかしら、
と思ってしまったのだった。
のだけど、怖くてそれを確かめる勇気もなくて、
実は、それを、今でも少し疑ったままで、いるのだった・・・・・・。