唇を閉ざせ。
【 唇を閉ざせ 】
著 ハーラン・コーベン 1939年刊行
著者本来のユーモアを潜ませて描かれる、一途な思いに突き進んでいく男のミステリー。
主人公デビッド・ベックは、今も、あの時のことを考えずにはいられない。
きっと、何かが、あったはずだと。
それが起きるだろう、兆候が。
これまでとは違った、何かの異変が。
ほんの、なんでもない、些細なことだったのかも知れない。
しかし、何かがあったのはずなのに、
それを、自分はなぜ、見落としたのだろうか、と。
しかし、彼は結局、なにも気づかなかった。
そして、それは起きてしまったのだ。
若き小児科医のベックには、愛する妻がいた。
初めて会ったのは、お互いが七歳のとき。
それから二人は、どちらもが、いつかはきっと、
この関係は終わるだろうと思っていたのだが、
でも、やがて、二人はそのまま結婚し、
すでに七ヶ月が過ぎていた。
そして、その日が来た。
二人は、元はキャンプ場があった、湖に来ていた。
そこはベックの祖父がずっと昔に、格安で買い取った場所で、
デビッド家の別荘として使われていて、
一般の人間が近づくことは決してない場所だった。
一本の木に、二人は密かに自分たちのイニシャルを刻み、
それをハートマークで囲んで、
毎年ここへ来るたびに、その下に一本ずつ線を増やしていた。
これまでに刻まれた線は、全部で十二本。
今年で、十三本目。
今になって思うと、それも何かの予兆だったのかもしれない、
とベックは思う。
周囲が夜の闇に落ちるころ、二人は湖に戻ってきて、泳いでいた。
誰も来ることがないのは分かっているから、二人とも裸のままだ。
月明かりの下、ベックは泳ぎ疲れて、
一人、湖に浮かんでいた浮き台に上り、横になって
子供っぽく、そのまま流れていくのに身を任せていた。
車のドアが閉まる音を聞いたのは、そのときだった。
ベックは身体を起こし、妻の名前を呼んだ。
反応がない。
浮き台は、いつのまにか、かなり漂い、岸から離れていた。
そのときだった。
夜の闇を裂くように、彼女の悲鳴が響きわたったのだ!
ベックは慌てて岸に向かって泳ぎだした。
実際には一瞬のことだったかもしれないが、
彼にとって、それは長い時間だった。
ようやく陸にたどり着き、妻の名前を叫びながら、
あたりに目を凝らそうとしたとき、
彼の身体に何かが襲いかかった。
ベックは何もできないまま、湖にふたたび転がり落ちた。
そして、そのまま意識を失いながら、
彼はゆっくりと沈んでいったのだった・・・・・・。
前回紹介した、「沈黙のメッセージ」 の著者、ハーラン・コーベンが、
マイロン・ボライターシリーズから離れ、
初めての単発作品として書かれたのが、
この、「唇を閉ざせ」です。
マイロンシリーズにおける魅力の一つは、
シリーズを重ねるごとに深く書き込まれていく、
登場人物たち自身だと、私は思っていました。
それだけに、シリーズではなく、
単発として書かれる著者の新作に、
最初はかなり、不安を抱いたように思います。
しかし、主人公デビッド・ベックが、妻と来ていたキャンプ場で、
何者かに襲われる一番最初のシーンを読み、
もはや、そんな最初の気持ちなど、どこかへ行ってしまい、
そのあとは、ただ、夢中で読つづけることになってしまったのでした。
湖の事件から八年後。
デビット・ベックは小児科医としての仕事をつづけながら、
一見、彼のことを何も知らない人が見れば、
何事もなかったかのように、暮らしていました。
しかし、親しい一部の友人たちは、八年前の出来事から、
彼がまったく立ち直れていないことを、みんな知っていました。
彼の妻の遺体は、誘拐されて五日後に、
道路脇に放置されているのが発見され、
ベックはその報告を、義理の父親の口から、
病室のベッドの上で聞いたのでした。
そしてその三週間後には、事件の犯人も逮捕され、
事件は終結します。
あとには、ただ、
たとえこの先、何があろうと、決してもう、
妻と会うことはできない。
という、デビット・ベックの非情な現実だけが、残ったのでした・・・・・・。
ちなみに、この作品。
原題「TELL NO ONE」のタイトルで映画化 もされています。
当時、出版と同時に四社の映画会社が
製作に名乗りをあげたそうですが、
最終的に映画化を決めたのは、フランスの映画会社だったようです。
舞台を完全にフランスに移し変えて、
全編フランス語によって作られているようです。
主人公の妻を演じたのは、
2003年のアカデミー外国語映画賞を受賞した
『みなさん、さようなら』に出ている、マリー=ジョゼ・クルーズ。
主人公が、『歌え!ジャニス・ジョプリンのように』で主役を努めた、
フランソワ・クリュゼ。
原作では同じ年齢という設定だった二人ですが、
映画だと、ちょっと年の離れたカップルのように見えてしまうのは、
私がフランス映画を見慣れていないせいでしょうか。
ちなみに、日本での公開は、現在のところ未定のようです。