マチュピチュの街を作ったのは日本人だった! | べーこん

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『蛍の光 四番』
千島の奥も、沖繩も、
八洲(やしま)の内の、護(まも)りなり、
至らん國に、勲(いさお)しく、
努めよ我が背、恙(つつが)無く。

<本当の日本の歴史>様から転載です。


知らなかった!!!

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【世界遺産】マチピチュの街を作った日本人

2015-05-04 16:00:00
テーマ:

世界遺産、マチュピチュ遺跡。




マチュピチュ村の父と言われる日本人がいました。

その方は、福島県安達郡大玉村出身の野内与吉さんです。


1917年、移民としてペルーへ渡った野内さんは、

当初、ペルーの農園で働き、米国、ブラジル、ボリビアへと渡りました。

1923年頃にはペルーへ戻り、

クスコ県にあるペルー国鉄クスコ-サンタ・アナ線勤務しました。




その後、野内さんは、前年に結婚した

マリア・ポルティージョさんとマチュピチュ村に住むことになりました。


野内さんは、何もないマチュピチュ村に川から水を引いて畑を作り、

水力発電を作り、村に電気をもたらしました。




木を伐採していた際、大木が倒れ、地面に穴が開きました。

そこから温泉が湧き、

野内さんは、そこを村人皆で使える温泉にしました。


現在もアグアス・カリエンテス村にあるその温泉は、

地元の人や観光客で賑わっています。


1935年、マチュピチュ村で初の本格的木造建築である

ホテルノウチを自らが建設。

そこでも野内さんは、1階を郵便局や交番として、

村の人々が使えるよう提供しました。





1941年、第二次世界大戦が勃発。

連合国側であったペルーでは、日系人を捉え、米国に渡し、

日本人は、米国の収容所へ強制連行されることになりました。





野内さんの自宅にも憲兵が来ましたが、

村のために尽くした野内さんを、村人たちは身を挺して守り、

野内さんが捉えられることはありませんでした。


マチュピチュ村に尽くし、マチュピチュの人々に愛された野内さんは、

1969年8月29日、息を引き取られました。


また、野内さんの次男、ホセさんは、

1981年から1983年までマチュピチュ村村長を勤めています。