こんにちは。

社会人ホルン吹きで、アレクサンダー・テクニーク教師養成課程在籍中のなべけんです。

 

実は私、数年前まで本当に日々の生活に辛さばかり抱えていました。

周囲に振り回され、やりたいこともやらず、内に内にと押さえ込んでいくばかりで・・・

 

でも、そんな中から復活して、今はかなり充実した日常を過ごせています。

一度どん底まで落ちてから戻ってくるのに考え方を相当変えたわけなのですが、今回はそんな話から、自分が随分楽になった「選択」という考え方について、ご紹介していきたいと思います。

 

○選択は積み重ねれば習慣になる

例えば、明日の朝何を食べるか。何時に起きるか。

通勤・通学の電車はいつも通りの時間に乗るか、1本ずらすか。何両目に乗るか。

週末に誘われた飲み会に行くか、行かないか。

今日は楽器の練習をするか、それともさっさと寝るか。

 

と、何もかもが「選択」の連続です。

 

上の例で言うと、「朝電車の何両目に乗るか」ということは、初めて行く職場・学校であれば色々考えると思いますが、1ヶ月もすればすぐ習慣になり、特に何も考えなくても乗り換えに便利な場所にいることができるようになりますね。

同じ選択を続けると、それに慣れ親しみ、いつしかそれは「習慣」に変わっていきます。

初めは意識的に選んだことを、次第に無意識にできるようになり、やがては選んでいるという意識すらなくしていきます。

 

これは、とても便利なことです。

毎度毎度、一から全部考えるのは大変ですから、使っていて便利なものを無意識にできるようになるのは人間が持ち合わせた効率的な機能です。

 

選択は日常の行動はもちろん、体の動かし方、頭の使い方、あらゆる活動に現れます。

自分にもどういった「慣れ親しんだ選択」があるかを、考えてみるとちょっと面白いかもしれません。

 

○慣れすぎると、選択していることすら忘れてしまう

便利なのは良いのですが、一方で慣れすぎると選んでいることすら忘れてしまうという欠点があるのが、選択を繰り返すことの難しさでもあります。

 

例えばいつも左足から歩き出す人が、あえて右足から歩こうとすると、ちょっとバランスが違ってやりにくかったりしますね。

左足で歩き出すのは何も考えずにできるけど、その逆は随分考えないと行えない。

本来はどっちの足でも良いのに、「左足からでないと上手く歩き出せない」とまで思い込んでしまう。

本当は、どこかのタイミングで左足から歩き出すことを選んだだけなのに(例えば、学校の体育でみんなで行進したときに左から歩き出すよう言われていた、とか)。

 

自分が生きている中で、最も慣れ親しんでいた選択は、「周りの目を伺う」「周囲の期待に応える」ことでした。

幼少期の経験に基づくものだと今ならわかりますが、数年前までは本気で「他人の期待を満たすことが自分の生きがいである」「他者に認められ、受け入れられないと生きていけない」くらいの意識を持っていました。

なので、当時の自分は相当本気で「自分の行動は他者のためにある」と思い込んでいました。

会社の上司が言ったことには全て従う。親の期待に応える。

それが私のやりたいことだと思い込んでいたし、当時の私の生存戦略だったのです。

それ以外の選択肢はない、とすら思いませんでした。他の方法があることを想像もしなかったです。

 

その結果、何が起きたか。

やりたくもない仕事を引き受け続け、上司からの期待に表面的に応え続け、ストレス負荷の極めて高い部署に異動させられ。ついでに家庭では両親の期待に応えるために活躍している自分の姿を見せようとする。

めちゃくちゃしんどいのに「自分は他者のためにある」という以外の選択肢が全く見えず、「ひたすら頑張る」というプランしか持ち合わせていません。

 

そしてある日の朝、私は発作を起こして仕事に行けなくなりました。

精神疾患(適応障害)でした。

 

○全部「自分の選択」だから「いつでも選び直せる」と自覚する

自宅で療養し、少しずつ体調がよくなると同時に、「同じように職場に戻ったらまた同じことになる」と焦り始めます。

そこで、心理学とか自己啓発系の本とか、色々な情報に出会ってこういう考えに至りました。

 

「周りに従うことも、結局は自分でそうしてきた」

「他人が決めていると思っているうちは、何も変わらない」

「全部自分が選んでいる、と思えれば、自己の責任でいつでも選び直せる」

「他者の評価を気にして窮屈に生きるくらいなら、心に従ってそれが許されるところで生きていこう」

 

慣れ親しんだ選択から離れるのは恐ろしかったですが、一回心も体も壊れているので、元の選択を続けたらよりひどいことになることを知っています。

それがあったから、そこからは職場にも少しずつ「苦手な仕事はやれません」と言えるようになったし、そのおかげで今はすごく平和な環境に身を置けているし、やりたいことを突き詰めよう、と思って音大にも行けました。全部自分で選び直したことなので、すごく充実していると感じています。
 

是非もなくやらされることだってあるだろうと思うかもしれませんが、それは言い換えると「やらされることを選んでいる」とも言えるのです。

会社で面倒な仕事を上司に押し付けられて断れないものを「自分で選んだわけではない」と思うかもしれませんが、「給料をもらう」「上司との関係に波風を立たせないようにする」という目的があって始めて、やらされるという状況が生まれるわけです。

給料もいらず、上司の存在もどうでもいいなら、断って仕事を辞めるという選択もありえますからね。

 

このアイデア、実は楽器の練習にもすごく役に立っていて、自分が長年身につけた習慣に対して「新しい選択肢はないか」という可能性を常に期待しながら練習に臨めています。

体も心も日々状態は変化しますので、去年は有効だった奏法が今日も有効かどうかは、試してみないとわかりません。うまくいかなかった時も悲観することなく、新しい選択肢を実験し、良いものを選び続けていけば良いと思っています。

 

〜おわり〜