こんにちは。

 

「なくて七癖」とはよく言ったもので、人は誰しもいくつかの癖、もしくは「習慣」を持っています。

習慣というのは面白いもので、意識的にやっているものもあれば無意識なものもありますし、そんなに嫌じゃない習慣もあればやめられるものならいますぐやめたいと思う習慣もあります。

 

そして、習慣とは体だけでなく頭の中にも宿っているもの。

違う場面に出くわしても、だいたい毎回同じような考え方をしているとか、気がつけばこういう思考に陥っているとか・・・「考え方の癖」とも呼ぶべき、思考の習慣です。

 

今日は、そんな「習慣」についての考察です。

 

○私の習慣について

私にも意識的・無意識的を問わず色々な習慣があるわけですが、とりわけ自覚的かつ大嫌いなものとして、

 

つい正解を求めたくなる

 

という思考の習慣があります。

 

例えば、レッスンなどで「自由にやって良いよ」と言われると、

「自由・・・自由ってなんだろう・・・間違えちゃいけないしなあ・・・先生は何を期待しているんだろう・・・この曲を正しく表現するには・・・」

 

などとムニャムニャ考え込んでしまいます。(大概その後失敗します。)

 

この時の私の思考を分解すると、私の中に色々な「想定される正解」が生み出されています。

 

・音符に対する正解(=楽譜通りの音を演奏しなくてはいけない)

・先生に対する正解(=先生の思う通りに演奏しなくてはいけない)

・表現に対する正解(=適切な表現をしなくてはいけない)

 

・・・改めて字面にしてみると、ずいぶん窮屈そうですね。

しかし、これが様々な場面で私が一瞬にして陥る思考なんです。恥ずかしながら。

 

○「習慣」の意味するところ

私個人の話は一旦置いておいて、まずは「習慣」とは何かを考えてみましょう。

 

「習慣」というワードに関して、興味深い記述を書籍の中に見つけました。

 

われわれの日常行動は、ほとんどがアクション(心理過程)記憶の再生です。

朝、起き、歯を磨き、洗面し、服を着替え、朝食を取り、靴を履き、仕事に出かけるなど、毎日の生活は行為の連鎖から成り立っています。(中略)習慣は人様々です。すべて、人それぞれのアクション(心理過程)記憶の再生です。

(山鳥重『「気づく」とはどういうことかーこころと神経の科学』(2018)ちくま新書 pp.116-117)

 

「アクション(心理過程)」とは「心理空間で起きる運動(意識されない心理経験)」(山鳥、前掲書、p.81)でのことであり、現実に起こるからだの運動と共存しているとのことです。

 

なんだか難しいですが、要するに、普段何気なく取っている行動は実は「こころ」が覚えているものを再生しているに過ぎない、ということです。

 

そして、ここでさらに興味深いのが次の指摘です。

神経過程はあくまで神経過程で、心理過程(こころ)はあくまで心理過程ですから、この二つの過程は同時に活動している、と考えるほかありません。(中略)もちろん、心理過程は神経過程から創発する現象ですから、常に神経過程の働きのしばりを受けています。しかし、決して同じ現象ではなく、こころはこころ独自の原理に基づいて働いています。

(山鳥、前掲書、p.40)

 

著者の山鳥先生は脳科学者です。山鳥先生は、神経過程(神経の働き)と心理過程(こころ)は、密接な関係がありつつも別の現象で、あくまで同時並行的に活動しているものだとしているのです。

そして、脳の活動は他でもなく神経系の働きです。つまり、上で言う習慣とは、体でも頭でもなく「こころ」に宿る記憶が再生されている現象だ、と言うことなのです。

 

○習慣は必要だから身についた

では、なぜ「こころ」にそんな記憶が宿るのでしょうか。

自分にとって不都合な記憶なら、むしろ忘れ去ってしまいたいと思うのが普通なのではないでしょうか。

これもまた、「こころ」が頭(思考)と違うところにある面白い点だと思います。

 

習慣がなぜ身についたのか。これは単純に、

 

必要だったから

 

としか言いようがありません。

 

それをすることで何かがうまくいった。それをすることで何か危機から脱出できた。

そんな経験をすることによって、こころの記憶領域に「これを繰り返すことで自分は大丈夫、なんとかなる」と言う情報が刻み込まれます。すると、その後も同じ再生パターンを繰り返すことで、自分を助けることができる、いわば「自己救済システム」とも呼ぶべき存在が、習慣だと言えるでしょう。

 

ところで、私が学んでいるアレクサンダー・テクニークとアドラー心理学では、ともに「全体性」や「心身統一体」という用語を用います。こころと体はそれぞれ存在はしているが、別個に活動するものではなくあくまでも「全体」が自分である、という考え方です。山鳥先生の指摘とはまた違う方向性ですが、これもこれで興味深い「わたし」の捉え方です。

 

そして、アドラー心理学では決まって「目的論」の立場を取ります。これは、何かの理由を考える時、その原因ではなく目的に目を向けるというものです。例えば、ある人が怒っているとして、その原因に目を向けると「人に迷惑をかけられたから」「失礼なことを言われたから」とするところ、目的論で捉え直すと、その人はある目的を達成するため、例えば、相手を簡単に服従させたいとか、反撃を受けないようにするためといったことのために、「怒りという感情を作り出した」と解釈するのです。

 

目的論の優れている点は、原因論が原因を取り除かない限り前に進めないのに対して、目的を見直したり、目的を達成するための違う手段を見つけることで、より適切な道を主体的に選べるようになる点です。

 

この目的論を適用すると、「わたし」が習慣を獲得した理由がよりクリアになります。

つまりどういうことかというと、

 

習慣は、全体としての「わたし」が、なんらかの目的のために選び取ったもの

 

と言えるのです。

 

何か自分を成功させたり、窮地から救い出した経験が「こころ」の領域に格納され、それが体(神経系)にも作用を起こし、結果全体としての自分が特定の行動を繰り返す。これが習慣と呼ぶものの正体だと考えられます。

そして、今も私たちはその習慣にいることを選び続けているのです。

 

○習慣を抜け出すカギは「いま、ここ」を見つめること

習慣は、ほかならぬ「わたし」が何らかの目的のために選び取ったものです。

だから、その習慣が今もあることを恥じる必要は全くありません。

 

重要なのは、その習慣が今もまだ必要なのかを見つめ直すことです。

 

山鳥先生の書籍に戻りますが、先生はディケンズの『二都物語』を引き合いに出して、人が習慣の力に負ける様を説明しています。

 

彼の身に、過去を思い出さざるを得ない困難な状況がふりかかってくるのです。

すると、彼は、突如、靴を作り始めます。「今」という現実に対処する力、つまり意識が弱まり、過去に蓄積されたバスチーユでの習慣(アクション)がこころを支配してしまうのです。

(山鳥、前掲書、pp.118-119)

 

「彼」とは、物語に出てくるアレクサンドル・マネットという外科医で、バスティーユ牢獄の独房に18年ものの間囚われており、その間に許されたのは靴を作ることだけでした。その後イギリスに逃れ健康を取り戻しますが、再び錯乱に陥った時にしたことが、囚われの身であった時にしていた靴作りだということです。

 

山鳥先生は、「今」という現実に対処する力が弱まった時、こころが過去の記憶に支配され、習慣に飲み込まれてしまうとしています。マネット医師が体験した経験は壮絶なものだったのでしょうが、この規模でなくても誰にでも起こりうることです。

 

最初に書いた、わたし自身の話に戻ります。

わたしは、ことあるごとに正解(だという保証)が欲しくなる習慣を持っています。これは、おそらく幼少期に受けた教育に由来があるものだと思っています。

小学校低学年の時に担任だった教師がお世辞にも良い教師とは言えず、常にビクビクしながら学校生活を送っていました。クラス中の生徒がよく怒られたり、常日頃から順位づけをされたりと高い緊張感の中で過ごしており、わたしは作文の原稿用紙の使い方を間違えただけでクラス全員の前で恫喝されたことがあります。最悪の記憶です。

怒られる基準は決まって「ちゃんとしているかどうか」「正しいかどうか」でした。でした、と言っても正確に覚えているわけではないのですが、わたしの中では既に「そういう記憶」になっています。

 

しんどい過去ですが、過去は過去です。

いま、ここまで持ってくる必要はありません。

 

演奏をする時、誰かから意見を求められた時など、「ちゃんとしたもの」「正しいもの」を出そうとしても、常に正解があるかどうかはわからないので、結局路頭に迷ってしまいます。

それよりも、「いま、ここ」に目を向け、価値判断を横に置いて今を精一杯やりきることが、今本当に必要なことを自分に自覚させ、この場における成功へと導いてくれるのです。

(参考記事:「いま、ここのわたし」で演奏する〜過去も未来も手放して〜

 

先日のSelf Quest Labのレッスンで、わたしの「正解欲しい習慣」をテーマに上げた時、渡邊愛子先生がわたしにこんなことを言ってくれました。

 

「いま、音楽を表現することに全力を注げると誓えますか?」

 

音を外したらどうしようとか、失敗したらどうしようとかではなく、今自分がすべきなのは、目の前にある音楽を精一杯表現しきること。そのために自分全てを使おう。こう「誓う」ことによって、わたしは「ちゃんと」だとか「正解」だとかいったものから解き放たれ、本来やるべき「演奏に全力を注ぐ」ことにコミットしきれたのです。

 

何かの習慣によって望みが叶わないと感じていたら、ぜひ一度誓ってみてください。

自分の心からの望みを必ず叶えると誓った時、必要なものは自ずと目の前に現れてくれると思います。

 

〜以上〜