Broken Worlds Receiver
日々満ち足りず、それでも日々は事足りている。
自分の部屋が何畳かなんて考えたことはなかったけれど、棚をふたつと2人掛けのソファ、白い円卓、シングルのベッドを置いても物足りないくらいには間が在った。本を読むには些か暗く、温度は一定だが何故か毛布が恋しくなる、そんな部屋。僕の1日は此処で構成され、そして波打ち際に寄せられやがて朽ちる。鳥籠、だなんて月並みでロマンチックな喩えは好まないし使いたくはないけれど、そんなものだ。
淡白に鳴る時計の針の音が言い様も無くあさましく、曖昧な意識が更に錯絡とする朝は狂ったように毎日同じ時間にきっかりと訪れる。学校は?とドアの向こうで声がする。行かない、と答えながら寝間着として使っていたガーゼのシャツを脱いだ。朝だから、動かなくてはならない。クロゼットからざっくりと編まれたニットのオフタートルと細身のレザーパンツを取り出し着替える。朝の意地悪な雰囲気の侭に投げやりに選んでもそれはそれで良かったのだが、生憎、僕は酉年生まれだ。着るものには執着して仕舞う。手早く身に付け、クリスチャンでもないのに黒く塗りつぶしたロザリオを頸に掛けると、母親が出て行ったことを確認してリビングに降りた。
鬼百合の飾られたダイニングキッチンで水をグラスに注ぎ、カウンターテーブル上の籠に山を成している林檎を手に取る。開け放した窓から舞い込む風が、レースのカーテンを寒そうになぶっている。外は寒そうだ。でも外気がひんやりと膚刺す様を想像すると、無性に散歩に出掛けたくなった。自分の部屋にあるものより大きな革のソファに腰掛け、林檎を齧りながら徒然にテレビの電源を付けてみれば天気予報のアナウンサーが此の地域の梅雨入りを告げている。彼女の纏う薄いベージュのセットアップが気に入らなくて直ぐに消した。
「どうした、ヴェニコ」
リモコンを置いて林檎の咀嚼に専念していると、不意に飼い猫であるロシアンブルーのヴェニコが膝の上に乗って来た。白と黒でつくられた部屋に、グレイッシュな深い青がえもいわれずに映えて美しい雌だ。だが名前は「紅子」、我ながら嫌がらせとしか思えない。ヴェニコは短く3度同じ調子で鳴いて、甘えた調子で擦り寄ってくる。エクリュのトップスに彼女の体毛が付くのが嫌で抱き上げて床に下ろすと、いよいよその訴えは五月蝿い迄になった。
「うるさい。ヴェニコ、僕は煩い女が嫌いなんだ」
「にゃ、ん、ん?」
「…なんで君は何時も疑問形で喋るんだよ」
「う、う、う?」
「ご、は、ん?」
「にゃ、う、う?」
「…母さんから貰わなかったのか」
「んー」
嘘だ。こいつは強請るのが病的に巧い。もしかしたら其れは全ての猫に共通なのかも知れないが、残念ながら僕は他の飼い猫を余り目にしたことは無かった。齧り掛けの林檎を適当にテーブルに放ると、カウンターテーブル下の彼女の食卓に箱からキャットフードを注いでやる。勿論量は少なめにして。
「太るなよ。デブは嫌いだから」
人となりがきついことは自覚している。其の為欠席がちな学校でも孤立している…と云うよりは浮いていた。それなりに頭の良い学校、教室には秀才のグループ、運動の出来るやかましいグループ、オタクのグループ、地味なグループ…と云った具合に綺麗に派閥が出来ていて、其の何れにも属さない僕は或る意味調和を乱す迷惑な存在なのだ。別に慈善でもないが、だったら気ままに休んだ方が双方の為である。体質的に学校、と云うものがどうも合わない。
ソファに戻り残りの林檎を齧り尽くすと、グラスを空けて片付けをした。キッチンには充分過ぎる程に道具が揃っているが、食べ物のにおいはしない。見せ掛けの居住空間、別に寂しくない。開いていた窓を閉めると、ヴェニコが餌を頬張る小気味良い音を背に廊下に出た。シューズクロゼットからオールレザーのブーツを取り出し履いて、姿見を通す。母親譲りの黒髪はもう腰の辺り迄伸びていて、後ろ姿なんてきっと母親そっくりだ。男らしくない、だとかそんなことを気にするつもりはないが、特に伸ばしている意味もなかった。
玄関の扉を開くと、空は何処か感傷めいた灰色で、電線の黒が一番合う色合いだった。予想通りに肌寒いが上着を羽織りに戻るのが億劫で、そのまま足を歩ませる。カーテンの様に風に煽られた髪が肩の部分だけ開いたニットにくすぐったく、乱れた髪を後ろに流して仕舞うといよいよ世界が自分のものになった。何も考えない、ぼんやりと歩いて世界に自分だけと云う架空の状況を作り出すのだ。人間は居ない、でも鴉や野良猫は居てもいいし、信号や踏切は何食わぬ顔で動く。自分だけ生き残って仕舞ったかのような孤独感とばつの悪さと、酷い解放感。喧騒なんて聞こえない。此処はフィクションだ。
始めは、携帯音楽プレイヤーを供にしていたものだが、或る日偶然充電切れの状態だったので仕方無しに耳栓無しで歩いてみたのだが、此れが思いもがけず良かった。反って孤独感が増すのだ。橋をひとつ渡り、通っている学校の前を通り過ぎ、夜に賑わうアルコールの匂いのする界隈を抜ける。途中自販機でペットボトルのアイスティーを買い、肩に下げていた旧いレザーのドクターズバッグに放り込み、再び歩き出した。もう通学通勤の気配は無い。もう暫く歩けば、案の定ヒールブーツの足が痛んだので、近くに見えた図書館に入った。こんなことなら借りていた本を持って来れば良かったとどうにもならない後悔をしつつも消毒用のアルコールスプレーを手に馴染ませて書架に足を踏み入れる。
開館したばかりで、しかも平日なのに意外にも人が多い。自分だけの世界でも一応は姿は見えているので、内心落胆しつつも何時も読んでいる作家の欄の前にしゃがみ込む。運良く新刊を見付け、それともう1冊読み返したいタイトルを棚から抜いた。もう1人好きな作家の頭文字の棚に移動するが、こちらは新刊も読み返す気もなかった。閲覧コーナーのソファも大きな長机もまばらに埋まっている。此処で読むのを諦めて空色のカードを取り出すとカウンターに向かった。
カードはお持ちですか。はい。3冊お手元に有りますね、期限は未だですがお早めにご返却下さい。はい。2冊で宜しいですか。はい。来月の朔日迄のご利用になります、有り難う御座いました。はい。
スキャンを終えた本を鞄に放り込んで、図書館を後にする。そろそろセルフで借りられるような機械を導入すれば良いのに。此の最新機器溢れる時代は嫌いだが、機械そのものは淡白で好きだ。アイスティーをひとくち飲んで、時計を見ると午後10時過ぎ。未だ早いが、帰路で時間を潰そう。来た道と違う道を選び、歩き出した。何処もかしこも、市の持ち物である施設や歩道脇には躑躅が植えられており、其の目に痛い桃色が自然界には有り得ないような、人工的な感じがしてなんだか好ましい。狭く入り組んだ路地を感覚的に進むと、30分程で橋の前。来た橋とは違うが、辿り着く場所は同じだ。渡って、傍に有る大きな公園に入った。
遊具は少なく、広大な芝生の彼方此方に点在している屋根付きのテーブルと長椅子の休憩スペースの方が多い。春は花壇にチューリップが咲いているが、もう春でもないので赤茶けた土が露出しているだけ。無意味に広い駐車場を挟んだ向こう側にはドッグランがあり、それらを囲うようにしてランニングコースが整えられていた。土手には水の事故を未然に防ぐようにと警告する看板が物寂しく立っている。此処には其れ程人の姿は無い。屋根をひとつ選んで色褪せた木の長椅子に腰掛けて、読み返したい方の本とペットボトルを取り出した。たいぶ温くなったアイスティーと呼べるのか解らないような代物に口を付け、頁をはぐる。数行読んだところで突如テーブルの対岸に、にゅ、っと音を立てそうに現れたのは、ノアの箱船に乗ったとされる優美な犬の顔だった。
「…アフガンハウンド?」
長く柔らかそう毛は灰かぶりのセピア。大きな眼には芳醇な涙をたたえたオニキス。利発そうな鼻梁は人間よりも美形で、犬は其の長細い顔をテーブルに乗せるとじっ、とこちらを見詰めて来る。
「えーと…何か用ですか」
犬に話掛けても無駄なことくらいは解っているが、内心かなり驚いたので心臓を落ち着ける意味合いでもあった。ドッグランから逃げて来たのだろう、リードは付いていない。雄か雌か、そんなことを考えながら睨めっこをしていると、軽快な足音が近付いて来るのが解ったので何事かと首を横に捻ると、こちらへ駆けて来た男が屋根の日陰に入り止まった。
「…ごめん、こいつ、俺の犬…」
息を切らせた男は同じ歳頃だろうか、長身で眼鏡を掛けている。深いブラウンの髪とアンバーアイは日本人の其れとは掛け離れており、顔立ちもはっきりとしていているが西洋とも東洋とも云い難い。同じ混血だろうか、とぼんやり思っていると男は何故か隣に腰掛けて来た。
「…これなに」
「…温くなったアイスティー」
男が指すのは先程取り出したペットボトル。
「ちょっとくれないか?だいぶ走った、から…」
「飲み掛けで良ければ全部あげるよ」
男は礼を言うと一気にペットボトルを空ける。半ば呆気に取られていると、彼は手持ちのハンドタオルで汗を拭い、面白そうにこちらを見て来るアフガンハウンドを睨み付けた。
「こら信濃!なんでお前はいっつも俺から逃げるんだよ!そんなに俺が嫌か」
信濃、と呼ばれた犬は反省した様子もなく、反って元気に返事をする。男は口惜しそうに項垂れると、そのまま脱力したようにテーブルに突っ伏した。犬が椅子の上に座り楽しそうに尻尾を振る様子から、此の男が完全に目上として扱われていないことが窺える。
「信濃…長野?林檎?」
「…空母。じーさんが好きなんだ。因みに雌…ってあんた男か」
男は顔だけこちらに向けると、僕の顔をじっ、と見上げて来た。先程の信濃と同じである。男が指すのは、此の顔と髪に些かの不自然さをもたらす声だろう。男にしては高いが、明らかに女の其れではない。不意に男は上体を起こすと、顔を覗き込んで来た。眼鏡からして視力が良くないのは解るが、近過ぎやしないだろうか。
「でもあんたの顔…どっかで…確か女だったような」
「…もしかして所謂ゴシックロリータファッションで大きなベースケースを背負って闊歩している痩せた女の子じゃない?」
「おお、そうだったな」
「…其れ、双子の姉」
姉(と意識したことは無いが)は此の街では浮くで有ろう服を好む。ゴシック好きな自分が言えたことでは無いが、寧ろ其れ以外の服を着ている彼女を目にしたことは無い。彼女もまた学校に行かないことが多いのでふらふらとしていれば直ぐに解る。明確なポリシーを持っていることは好ましいが自分以上に性格がきつく厄介なので教師ですらネグレクト。今日は学校に行ったようなのだが気が向いた云々よりは単位の問題だろう。
「やけにベースの巧い女だと思って覚えてたんだ…双子か。へえ、やっぱそっくりなんだな」
「ライヴ、みたの?」
「対バンでな…あんたはなんかやってねーの?」
「…昔ベースやってたけど、双子でベースってどうにもなんないから、」
やめた。は省略。思えば彼女のベースが格好良かったから真似のように始めた程度、どちらにせよ長続きしなかっただろう。男は勿体無い、と呟くと椅子に座り直して改まったように背筋を伸ばすと空気を口内に孕むようにして笑った。
「俺、ケイ。難しい方のかおるって書いてケイな。あんたは?」
「玻璃」
「ハリ?ニードルか?」
「ガラスの玻璃。因みに姉は翠銅」
「スイドウ?水の道?」
「鉱石だよ。翡翠のみどりに金属の銅」
「ふーん、変わってんな」
「ものずきなんだ」
そう、モノが好き。父親は理科少年だったらしく、しきりに鉱物や虫、薬品漬けの屍骸の標本や年期ものプレパラートだとかビーカー、硝子ペンや硝子匣の類いを無意味に蒐集する癖があった。最近はなんとかネーム、だとか子供の気持ちを考えろ、だとか言われるが、僕も彼女も自分の名前が気に入っている。きっと父親譲りで無意識に無機質を好むのだろう。
こうして自分だけの世界、をぶち壊しにされた訳だけれど、余り悪い気はしなかった。男、馨は何かの呪文の様に僕の名前を何度も唱えながら眼鏡を外すと、レンズ部分を羽織っていたパーカーの袖で乱暴に拭う。其の精悍な顔立ちは大型の猟犬のようで、きっと鼻が利くんだろうな、なんて思う。
「玻璃、お前幾つ?」
あんた、からお前、になった。
「17。今年18になる予定」
「お、同い年じゃん。何処通ってんの?」
僕は此の市では有名な進学校の名を告げた。
「へー…アタマいいんだな」
そして馨は僕が苦手に思っている、制服の着崩し方が不良としか言い様の無い男子校の名を、ぞんざいに口にすると、僕の顔を見て恥かしそうに頭を掻く。短い髪が冷えた風にそよぐと、濃いブラウンが僕の好きな紅茶へと色を変えた。
「今日、学校は?」
「…学校、好きじゃないから。君は?」
「君じゃなくて馨。俺は寝坊したからもういいやって」
第一印象からそう思っていたが、結構気が強いらしい。不良だ、なんて口に出したらお互い様だろ、と返された。暫く他愛も無い話をした後、馨は僕の手元にあった本を何の許可もなく手にすると、頁をぱらぱらと捲った。まるで風にそうされているみたいに綺麗に等間隔に紙がゆるい弧を描く様がなんだか手品を見ているようで、思わず呼吸を止めて仕舞う。そして其の指にオーヴを象ったリングが嵌められているのが目に入ると、一気に好感が湧いて来た。
「これ、面白いのか?」
「僕は好きだけれど…本、読まないの?」
「それなりにはな。でも年齢層が低い本ばかりらしい…って指摘されるまで解んない辺り駄目なんだろうな」
馨は困ったように笑うと、本を閉じて胸の前でひらひらと泳がせる。
「これ、貸してくんね?」
「え、図書館のなんだけど」
「期限いつまで?」
「来月の朔日迄のご利用になります」
先程受付係に言われた言葉をそっくりそのまま声に出すと、馨は一瞬噴き出した。
「その事務的な声、いいね、似合ってる」
「…どうも」
「じゃあ其れ迄に返すよ、玻璃に」
図書館の返却ボックスに入れれば良いのに、なんて言えなかったのは何故だろう。馨は本で凝ってもいないであろう肩を軽く叩くと、立ち上がり日陰でのんびりと眠っていた信濃の首にリードを取り付けた。
「何時ヒマ?」
信濃を立ち上がらせながら、横顔が言う。
「流石に2週間も学校休まないけれど…就職組だから確実に土日は暇」
「じゃあ来週の月曜、休め。体育祭の代休なんだ」
「理不尽」
「俺はマイペースが売りなの!じゃあな、玻璃」
そう言って手を振ると、馨は信濃を伴って駆けて行って仕舞った。残された僕は手を振る為に中途半端に上げた手をゆっくりと下ろすと、空になったペットボトルを見詰めて溜め息を吐く。僕だって慣れない長話に喉が乾いた。帰りに自販機で何か買おう、そう決めて軽くなった其れの口を人指し指と中指で挟んで席を立つ。再び外界をシャットアウトして馨の行った方向とは逆の方角へと歩き出せば、刺すように冷たかった風も午後の色を帯びて幾分かやわらかくなって頬を包んだ。

