1月22日(日)朝日新聞の福島申二編集員の記事「日曜に想う」
彼の記事は、ヒトラーのナチスで迫害された白バラの学生の逸話を基に、トランプ新大統領に対する批判を展開している。白バラの学生は、ナチスドイツの全体主義的な政治状況下において、ナチス政権を批判するビラを配り続けたが最後にはゲシュタポに捉えられて処刑された。彼等は確かに殺されるかもしれない(本当に殺されたが)状況下で、批判精神を人々に宿らせるために、そして本当にナチス政権をなんとかできないかと考えた勇気ある者たちだったのだ。
この美しい逸話は、ナチスドイツという全体主義を克服したと考えられているドイツ(実際には、全体主義を完全に克服できる社会など、今のところ現実にはありえない)では、その物語が良心を呼び覚ますものとして、語り継がれている。しかし、福島委員は全体主義という悪魔を降臨させたヒトラーと、トランプ新大統領とを重ね合わせている。
福島委員は、ヒトラーという存在を文脈において、「事実や真実よりも感情的な言辞や虚言、あるいは嘘の情報に民意が誘導されていく状況(ポスト真実と言われているらしい)」がこの世界で起こっているというのだ。しかしながら、これは全体主義を誤って理解している。全体主義になれば、その状況に置かれた大衆が免罪になることはないのだ。
残忍で狡猾な一人のリーダーに極めて手際よく誘導されたとして、その誘導を前にしてオメオメと騙される人間というものを、人間として果たしてどのように思うだろうか?あるいは、ナチスドイツのユダヤ人に関する強制的解決が当時のドイツ社会で行われ、終戦を機にユダヤ人に関する強制的解決を完全に停止したしたとしても、ドイツ社会そのものが終戦の前後で戦争前は一人の悪魔と”ウブ”なドイツ人(実際にはアドルフ・アイヒマンを中心にユダヤ人の強制的解決を果たそうとした組織があった)、戦後は”改心”したドイツ人社会という構図を描いていいのだろうか?という良心への問いかけが生まれてくる。線引きをするということがときとして、悪いものが含まれているにもかかわらず、良いと判定をして悪いものを追求することをやめてしまうことになるのだ。
論説の後半でこのように語られている。
「政治家には考えるタイプと思うタイプに分けるなら、政権を去ったオバマ氏は前者であろう。~トランプ氏は後者だろう。」
このように語り、オバマはときに非力に見えるが民主主義に内在する危うさを深く認識すればこその「考え」だと擁護し、トランプ氏には決断力に富み英雄的でつ強くみえるのが厄介だ、とオバマと違い完全に全否定した。
「トランプ大統領の誕生は、思うがもてはやされ、考えるが面倒がられるネット時代の必然かもしれない。米の民主主義がもたらした世界への劇薬であるのは、いまのところ間違いない。」とインターネット言論空間が「事実や真実よりも感情的な言辞や虚言、あるいは嘘の情報に民意が誘導されていく状況(ポスト真実)」になっているというのだ。
しかし、人間は考えると思うを切り離してはならない。人間は考えることによって、私と世界の関係をつなぐのだ。世界は私とは別に存在する。私が死んでもこの世界はあるのだ。しかし、私は生きている。この世界というとき、それは常に「私の世界」なのである。世界観とは、指示語がなければ私の世界観なのだ。世界観は私が考えるときだけに誕生する。世界観とは、私が世界をどのように解釈し、意味付けをして、どのように生きることを選ぶということなのである。世界観は生き様である。そのとき初めて自分の考えが根付き、根付いた考えは本音として宿り、思うようになるのだ。とても単純である。筋が通らないことを押し付けてくる人間は、正義という価値観を侵していると考えるのだ。それではダメだと思い、そして怒るのだ。その怒りは健康的な怒りである。感情的という言葉は常に否定的に解釈されていってしまう。考えて思わない人間は、実は考えていないニヒリストである、考えず思うだけの人間もまたニヒリストである。なんらの価値観を持たない。正義も倫理も愛も道徳も、よりそうべき価値観が永遠に魂に宿らない。なにがいいのか悪いのか、なにが美しく醜いのか、なにが音として心地よく耳障りなのか、何も分からない迷走者。分からないことが分からない、なにが分からないのかも分からない、どこまでを分かっているかも分からない。
「思うがもてはやされ、考えるが面倒がられるネット時代」
考えて思ったとしても思ったことを発言しない人間は、政治的に殺されている。それは考えて思わない人と同じである。考えて思わない人とは、思うだけの考えがないのだ。そのようなニヒリストが、自由という観念的なものに振り回され、世界の主に若者を中心とした労働者達の現実的な惨状に思いを致さないのだ。そのようなニヒリストが、平等をうたいあげ、「不法」移民による脅威を不安に感じる人達の安寧ある暮らしに思いを致さないのだ。
彼の記事は、ヒトラーのナチスで迫害された白バラの学生の逸話を基に、トランプ新大統領に対する批判を展開している。白バラの学生は、ナチスドイツの全体主義的な政治状況下において、ナチス政権を批判するビラを配り続けたが最後にはゲシュタポに捉えられて処刑された。彼等は確かに殺されるかもしれない(本当に殺されたが)状況下で、批判精神を人々に宿らせるために、そして本当にナチス政権をなんとかできないかと考えた勇気ある者たちだったのだ。
この美しい逸話は、ナチスドイツという全体主義を克服したと考えられているドイツ(実際には、全体主義を完全に克服できる社会など、今のところ現実にはありえない)では、その物語が良心を呼び覚ますものとして、語り継がれている。しかし、福島委員は全体主義という悪魔を降臨させたヒトラーと、トランプ新大統領とを重ね合わせている。
福島委員は、ヒトラーという存在を文脈において、「事実や真実よりも感情的な言辞や虚言、あるいは嘘の情報に民意が誘導されていく状況(ポスト真実と言われているらしい)」がこの世界で起こっているというのだ。しかしながら、これは全体主義を誤って理解している。全体主義になれば、その状況に置かれた大衆が免罪になることはないのだ。
残忍で狡猾な一人のリーダーに極めて手際よく誘導されたとして、その誘導を前にしてオメオメと騙される人間というものを、人間として果たしてどのように思うだろうか?あるいは、ナチスドイツのユダヤ人に関する強制的解決が当時のドイツ社会で行われ、終戦を機にユダヤ人に関する強制的解決を完全に停止したしたとしても、ドイツ社会そのものが終戦の前後で戦争前は一人の悪魔と”ウブ”なドイツ人(実際にはアドルフ・アイヒマンを中心にユダヤ人の強制的解決を果たそうとした組織があった)、戦後は”改心”したドイツ人社会という構図を描いていいのだろうか?という良心への問いかけが生まれてくる。線引きをするということがときとして、悪いものが含まれているにもかかわらず、良いと判定をして悪いものを追求することをやめてしまうことになるのだ。
論説の後半でこのように語られている。
「政治家には考えるタイプと思うタイプに分けるなら、政権を去ったオバマ氏は前者であろう。~トランプ氏は後者だろう。」
このように語り、オバマはときに非力に見えるが民主主義に内在する危うさを深く認識すればこその「考え」だと擁護し、トランプ氏には決断力に富み英雄的でつ強くみえるのが厄介だ、とオバマと違い完全に全否定した。
「トランプ大統領の誕生は、思うがもてはやされ、考えるが面倒がられるネット時代の必然かもしれない。米の民主主義がもたらした世界への劇薬であるのは、いまのところ間違いない。」とインターネット言論空間が「事実や真実よりも感情的な言辞や虚言、あるいは嘘の情報に民意が誘導されていく状況(ポスト真実)」になっているというのだ。
しかし、人間は考えると思うを切り離してはならない。人間は考えることによって、私と世界の関係をつなぐのだ。世界は私とは別に存在する。私が死んでもこの世界はあるのだ。しかし、私は生きている。この世界というとき、それは常に「私の世界」なのである。世界観とは、指示語がなければ私の世界観なのだ。世界観は私が考えるときだけに誕生する。世界観とは、私が世界をどのように解釈し、意味付けをして、どのように生きることを選ぶということなのである。世界観は生き様である。そのとき初めて自分の考えが根付き、根付いた考えは本音として宿り、思うようになるのだ。とても単純である。筋が通らないことを押し付けてくる人間は、正義という価値観を侵していると考えるのだ。それではダメだと思い、そして怒るのだ。その怒りは健康的な怒りである。感情的という言葉は常に否定的に解釈されていってしまう。考えて思わない人間は、実は考えていないニヒリストである、考えず思うだけの人間もまたニヒリストである。なんらの価値観を持たない。正義も倫理も愛も道徳も、よりそうべき価値観が永遠に魂に宿らない。なにがいいのか悪いのか、なにが美しく醜いのか、なにが音として心地よく耳障りなのか、何も分からない迷走者。分からないことが分からない、なにが分からないのかも分からない、どこまでを分かっているかも分からない。
「思うがもてはやされ、考えるが面倒がられるネット時代」
考えて思ったとしても思ったことを発言しない人間は、政治的に殺されている。それは考えて思わない人と同じである。考えて思わない人とは、思うだけの考えがないのだ。そのようなニヒリストが、自由という観念的なものに振り回され、世界の主に若者を中心とした労働者達の現実的な惨状に思いを致さないのだ。そのようなニヒリストが、平等をうたいあげ、「不法」移民による脅威を不安に感じる人達の安寧ある暮らしに思いを致さないのだ。