【行事報告】手話で語る「関東大震災とろうあ者」
9月1日(日)午後、渋谷区リフレッシュ氷川 1階集会室で開催。
講師は小薗崇明氏(こぞのたかあき)東京成徳大学人文学部日本伝統文化学科助教 
https://tokyo-choukaku.jp/koenkai/info/event/20190731_266/


関東大震災から96年の節目に開催。関東大震災で、朝鮮人と間違われて虐殺されたろう者がいた。

関東大震災当時、陸軍被服廠で38,000人もの方が火災に巻き込まれて亡くなった。

陸軍被服廠跡地は横網町公園となり、慰霊堂や復興記念館がある。毎年9月1日と3月10日に法要が行われている。
全体で10万5000人以上が亡くなられたが、火災で亡くなられたのは東京市や横浜市に集中。

神奈川や千葉、静岡では家屋倒壊や津波で亡くなられた方も多数いる。

多数なくなられたのは事実だが、当時の絵はがきに合成写真を使った火災被災の写真が見受けられる。

火災のイメージが強いのは、作られたストーリーが影響している可能性があるという講師の見立てである。

当時、朝鮮人が井戸水に毒を入れたというデマが流布し、都内や千葉、埼玉などで住民が自警団を組織。

千葉には朝鮮人を10数人もらい受けて、少なくとも8人虐殺していた記述のある日記が残っている。
朝鮮人を日本のアイデンティティで見分けていたようです。「50円50銭」が「コチューエンコチュッセン」になったりするため、発音させて区別したり、歴代天皇を言わせたりもしたらしい。方言のため、日本人でも秋田や三重の方が殺されたケースもあるとのこと。

 

10月6日の「二六新報」に、多数の聾唖者が傷害を受けたという記事がありました。
「東京聾唖学校生徒の家中義雄氏が発音のため朝鮮人と誤認され、自警団に日本刀で殺害された」ことを報じる記事が(内容に多少のぶれはあるが)複数あり。
家中氏の件、官憲側の資料には、「日本人が殺された」ことは出てくるが、聾唖者という記述はない。

家中氏は1902年生まれ。本籍大阪府。6歳で脳打撲により失聴。
1917年に大正皇后が東京聾唖学校を行啓時に、昔話を模範音読したという記録がある。中途失聴で発音はできたのではないか?と推察される。

 

関東大震災を経験した聴覚障害者、高増径草(故人)について。
彼の描いた大震災絵巻二巻が、震災被害資料等を展示している、都立復興記念館(墨田区横網)に展示されている。

関東大震災で、朝鮮人と間違われて虐殺されたろう者・家中氏は、高増径草の同窓生だった。

ろう画家の高増は1901年東銀座生まれ。2歳脳打撲で失聴。
1917年、大正皇后の前で御前揮毫。家中氏と重なる。
1923年師範科図画科在籍。

絵巻には震災時の白鬚橋、花やしきなどのパノラマを描いている。

高増氏の家は日活撮影所の近くにあった。倒壊した家に家族や友人とともに閉じ込められ、揺れが収まってから近所の方に助け出された。家族ともども大きなけがはなかった様子。

震災の後、治安がよくないため女子は家にこもり、男子は武装して夜中も警戒にあたった。聞こえる弟は大人とともに日活の刀を借りて警戒していたが、高増は聞こえないので兄弟が心配して夜出歩くのを禁じていた様子。

1924年12月、広島聾学校教員辞令を受ける。広島聾学校へ。
1945年8月の原爆投下時は吉田町に疎開、翌月には広島入りして惨状をスケッチしている。
広島平和記念資料館に所蔵されているうち、高増氏の描いたものをデジタルアーカイブで見ることができる。

http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/list/

スケッチ時、関東大震災でろう者が誤解で殺されたことから、日本人であることを証明するため、聞こえる息子を同行していたらしい。

 

戦前に広島聾学校で彼の教え子だったろう者、山本康彦氏の生の話が聞けた。3月10日の東京大空襲戦争体験の際、高増氏の教え子だったとわかり、びっくり!

山本氏は12歳頃(昭和12年頃)から毎週一回(20年8月まで)、終戦まで広島聾学校で高増氏から絵画を学んでいたとのこと。

高増氏のサインネームは指文字「ひ」を2回上に上げて表現。

関東大震災時のエピソードとして、校舎が大きく揺れたときに窓から飛び出たと話していたという。

高増先生は手話で話すよりも黒板に板書で指導することが多かった。手話はわかったがごくまじめで、落ち着いたやさしい雰囲気だった。

妻に先立たれ、葬儀を手伝ったのを覚えている。聞こえる娘と息子がいたのを覚えている。

という証言があった。

 

それにしても関東大震災で同窓生が亡くなったことは、聾学校教師や生徒にとって大きなショックだったのではないかと思われるのだが、それを裏付けるような記載はほとんどない。

この件について触れるな、話すなという圧力的な意思を感じるのだが、どうだろう。

1880年のミラノ会議以降、ろう教育が口話法にとって変わり、視覚的で自然な意思疎通の機会が減ったことが背景にあるのかもしれないが、明確な証拠がないようだ。