先日、ダンスのレッスンを受けた時に、「少しお互いの意見を擦り合わせて建設的な練習が出来るようになりました」という話をしていて、先生が仰ったこと。
「何が正しいかではなくて、どうしたら良くなるかを考えなくてはいけない」
ケンカをしている時、何が起きているかというと、「自分の意見やしていることを否定された=自分のこと(人格)を否定された」ような気になり、いかに自分が正しいか証明しようと躍起になり、挙句には本当に相手の人格まで否定する、というようなことが、往々にして起きているのではないかと、確かに思うのです。
「何か言われたら、自分の意見とは全く違っていても、とりあえず『そうかもね』と言えばいいの」
そう「かもね」で良いのだと。
自分の意見が聞き入れられたと思った時、相手は「言い過ぎたかな」「相手の言うことも一理あるのかも?」と思うのだそうです。
もし自分の意見が100%正しい(と確信している)にしても、「何が正しいか」よりは「どうすれば良くなるか」を検討する方が有意義であると。
なるほど、確かに、と思いました。
色々な場面で、「本当はこれが正しくてベストだけれども、それが実現不能だとしたらどうしたらよいか」ということを考えなくてはいけない場面は多々あると思うのです。
それを狡いとか、偽善だとか、理想を追求しないとか、色々言うことは出来ると思うのですが、じゃあどうにもならない膠着状態に何か意味があるのかと言えば、無いのではないかと。
ある人にとっての正解、正義、理想といったものが、他の人にも等しく当てはまるかと言えば、そうではない。
むしろ立場や文化的背景や利害や…意識するとしないとに関わらず、多くのものに影響されて、個人個人の価値観というものは形成されているわけで、大多数の人が共感出来る価値観というものはあるにせよ、例えば国が違えば全く逆転したり、そして厳密にはどちらが正しいとか間違っているとかを、他人が判断することは出来ないと思うのです。
そうでないと、「俺の神を信じないお前は人間ではない」というようなことになってしまう。
そういうのはとても不幸なことですよね。
「どうすればよくなるのか」
始めはそのつもりだった筈なのに、いつの間にか論点がすり替わってしまっている…そうならないように、生活の全ての場面で気を付けていけたら…。
そう考えさせられるレッスンの一幕でした。
「何が正しいかではなくて、どうしたら良くなるかを考えなくてはいけない」
ケンカをしている時、何が起きているかというと、「自分の意見やしていることを否定された=自分のこと(人格)を否定された」ような気になり、いかに自分が正しいか証明しようと躍起になり、挙句には本当に相手の人格まで否定する、というようなことが、往々にして起きているのではないかと、確かに思うのです。
「何か言われたら、自分の意見とは全く違っていても、とりあえず『そうかもね』と言えばいいの」
そう「かもね」で良いのだと。
自分の意見が聞き入れられたと思った時、相手は「言い過ぎたかな」「相手の言うことも一理あるのかも?」と思うのだそうです。
もし自分の意見が100%正しい(と確信している)にしても、「何が正しいか」よりは「どうすれば良くなるか」を検討する方が有意義であると。
なるほど、確かに、と思いました。
色々な場面で、「本当はこれが正しくてベストだけれども、それが実現不能だとしたらどうしたらよいか」ということを考えなくてはいけない場面は多々あると思うのです。
それを狡いとか、偽善だとか、理想を追求しないとか、色々言うことは出来ると思うのですが、じゃあどうにもならない膠着状態に何か意味があるのかと言えば、無いのではないかと。
ある人にとっての正解、正義、理想といったものが、他の人にも等しく当てはまるかと言えば、そうではない。
むしろ立場や文化的背景や利害や…意識するとしないとに関わらず、多くのものに影響されて、個人個人の価値観というものは形成されているわけで、大多数の人が共感出来る価値観というものはあるにせよ、例えば国が違えば全く逆転したり、そして厳密にはどちらが正しいとか間違っているとかを、他人が判断することは出来ないと思うのです。
そうでないと、「俺の神を信じないお前は人間ではない」というようなことになってしまう。
そういうのはとても不幸なことですよね。
「どうすればよくなるのか」
始めはそのつもりだった筈なのに、いつの間にか論点がすり替わってしまっている…そうならないように、生活の全ての場面で気を付けていけたら…。
そう考えさせられるレッスンの一幕でした。

