(『…アヌビスだったっけ?…』)


眼前に迫る犬顔の上司に哀愁とある種の親近感を覚えはするものの殺人的なスケジュールに追い討ちをかける如き業務命令の山々山本山に不本意ながら殺意すら覚え、柴犬の眉毛に『きゅんっ』と来たあの幸福感を一掃するべく『犬』と『死』…二つの詞から蘇(よみがえ)り再構築されたイメージは古代エジプト由来の犬頭人躯の神の其である。

愛情こそ有りすれ犬を嫌う所以など先程まで微塵も無かったのだが…無情『アヌビス似の上司』の愚劣極まり無い明らかに間違った経営判断のお蔭様でかれこれ二週間、休まず働く結果となった。



『みんな水割りで!…あっ、こいつだけ烏龍茶ね☆』

打ち上げと称して嫌々連れて来られた『娘さんの群が微妙に密着して頼んでも無いのにお酌して許しても無いのにただ酒を飲む薄暗い居酒屋さん』にて禁酒中の己を呪いつつ中国系娘と韓国系娘に挟まれ『東アジア沈黙三国同盟』を形成すべく黙して語らぬを決め込む。

名刺を受け取ったのは来るべき禁酒令廃止の後晴れて『常勤幹事役』復活の狼煙を上げる為でこれっぽっちも他意は無い…無かったはずである。

あったとすればそれは『お預けとお持ち帰り』…商取引上の未練と敗北感に相違ございません。



『酔えば強いんだ…本当は…』


例えるならば『酔拳』無類の達人であってさりとて達人なればこそ『酔って無くとも本当は強い』等の初歩的なミスを犯すなど絶対に無く終電間際の総武線(千葉方面)の閑散とした車内で独り寂しく『戦果ゼロ』の暗鬱に深々と沈み込む…深々と座るのも寝たふりにも他意は無い。

仏のごとき半眼と沈黙で瞑想的なスピリチュアル…言わばアストラル状態で不自然にシートに沈み込む私の膿脳の記憶野に突如、ニュータイプの如き稲妻マークが閃く。

『香りの記憶』と呼ぶべきものが世に在るならば正に此であろう。


それは甘く…

理性というものを蕩けさせる『甘い香り』…


間違っても半眼の先で男らしくがに股でシートで眠る『よだれを垂らしたタイトスカートの女性』が発するフレグランスでは決して無い。


『あっ、もしかして…』

シャツの胸ポケットに入れて置いた『東アジア沈黙三国同盟』のコリアン娘から無意識のうちに貰っていたた名刺を取り出す。

案の定『甘い香り』の招待は名刺であると判明…手持ち無沙汰と知的好奇心から『半眼でシートに沈み込んで名刺の匂いを嗅ぎ続ける』エキセントリックな態勢のまま終点の千葉駅に到着。


(注:記憶を反芻していたのは『匂い』であって『持ち主』ではありません。念の為。)


あまり気にも留めていなかったが『向かいのシートで眠っていたよだれを垂らしたタイトスカートの女性』も同駅にて下車、足早に立ち去って行った。きっと、見たいテレビ番組でもあったのでしょう。



歩きがてら『甘い香り』を記憶の中で繰り返し反芻しながら午前様も半ば過ぎての帰宅。

俗世の匂い(ニコチンを主成分とする)を洗い流すべくシャワーに取り掛かり、然る後ボディソープをプッシュすると『シュコッ』と鳴くだけで何も出る様子が無い。


『いつもの無いから。それ使って』

安全なタイミングで風呂場の扉を開けた妻の指し示した先には妖しいまでにピンク…ラメ入り真っピンクの小さなボトルが置いてある。


ラベルには『LUSH フェアリーキャンディ』の名称と共に『今宵貴女は雪の妖精になる』と煽り文句が入っている。


『よしっ!いっちょう妖精になったるかいっ!!』


不必要な気合いと共にボトルキャップを開けた瞬間…繰り返し反芻していたあの『甘い香り』が現実のものとなり鼻腔に全身にそして脳幹に達し風呂場という小世界を『甘い香り』がロゴス・パトスの両極に於いて統べるに至る。

そして我が珠肌に拡がるラメ入り真っピンク『甘い香り』が心身と理性を痺れさせて…





(『俺、このまま妖精になってしまうんやろうか…』)



…夢見る心があればきっと空も飛べる筈にございます(^^ゞ










追伸


『…私も使ったから…』


妻の正気を奪った妖しいラメ入り真っピンク『甘い香り』。


大人版『怪人20面相』の小林少年並に耽美かつ絶対絶命の大ピンチ…




…30分後


妻 息子 私


それぞれが発する『甘い香り』にむせ返る布団部屋で仲良く川の字で眠りにつく模範的な幸せ家族の姿がそこにあった。




例外1名…


それは『眠れぬ森の悶々おやじ妖精』にございます(^^ゞ