水張りが始まった田んぼが、春の霧を淡く反射している。


目を上げれば、春霞がかかって色の薄くなった世界が、際限なく続いているように見えた。



「彼女の撮る写真は、どれも色素が薄かった」

今読んでいる小説に出てきた表現。




僕はこの言葉に出会い、


ああ、これだ。


これが、僕が見たかった世界だ。


そう感じた。




小説の主人公も、同じことを言っていた。




薄く霞がかったような、日焼けした写真のような景色。




僕は恐らく、景色や、音楽にもそれを求めていたんだろうと思った。







昔の歌には、海の男の歌や、熱い恋の歌など、まっすぐで強い感情が現れた歌が多い気がする。



だけど最近は、純粋な感情を歌っているのに、どこか寂しいような、なにかそういう切なさを纏った歌が多い。


ヨルシカとか、とくにそのへん、?





悲しい別れの歌なのに、どこか理想的な。




憧れを抱いて聴いていても、現実はそんなふうにならないと、どこかで分かっているような。






歌は、その時代の人々の憧れを表してきたのではないだろうか。


昔の人は、不便の多い社会で、熱い友情を、熱く愛し合えることを望んだ。


反対に現代人は、進化しすぎた世界の中で、小説のようにきれいな世界を生きられなくなり、純粋な心に、自分たちの失ったものへの寂しさを重ねた。



純粋さを失ってゆく世界に、人は純粋さを求めているんだろうと思った。













何言ってんのか分かんないなぁ。笑














もう霧は晴れた。