11月29日午前3:05、父が亡くなりました。
75歳でした。

ここで書くことは誰かに見てもらいたいわけでも、何かを伝えたいわけでもありません。
ただ、書いておきたいと思うので書いています。
ごく個人的なことで、長いですし文章のまとまりもありませんので、読んでみようと思う方だけ読んで頂ければ幸いです。


今年の9月に入ったころ、父が2週間ほどせきが止まらず少し動いただけでも息切れがするということで、かかりつけのお医者さんで胸部レントゲンをとってきました。

その時点では肺炎ということでしたが、要精密検査ということで、総合病院にて細胞診検査の結果、「悪性」と診断されました。

ステージⅣ・・末期の肺がんということでした。
9月14日のことです。

年齢や病気の進行状況を考えると手術や治療は不可であるとのことでした。
この時点でのドクターによる余命の予想は10カ月。

父にはがんであることは伝えましたが、末期であることや余命については告知はしませんでした。

本人の希望で、すぐに入院はせず、動ける間は今まで通りの生活を送りたいとのことでしたので、しばらくは通院とせき止めの薬のみで過ごしていました。

父は自営で鉄工所をしており、70を超えてはいますが仕事を生き甲斐にしていましたので、明石から職場のある加古川まで電車と自転車で通い続けました。

まともに呼吸もできない状態ですから、本当に力を振り絞って通勤し仕事をしていたと思います。
その姿を見ているのは本当につらく、父のことでこんなにも涙が出るのかと思うぐらい、夜布団に入ると知らず知らずに泣いている日がよくありました。

おそらく母も一緒だったと思います。

でもやはりその状態は長く続けられるものではなく、10月下旬ごろ自転車がしんどいからということで、電動アシスト自転車を買ったのですが、その直後に入院となりました。

結局、父は楽しみにしていたその自転車に乗ることはかなわず、後に母が病院へのお見舞いに通うために使われることになりました。

入院しても治療という治療はすることができないので、肺にたまった水を抜くことや、酸素吸入を行うぐらいです。

僕は今の仕事をする前は医療機器メーカーに勤めていたのですが、この時酸素吸入で父が使っていたものがその会社の製品で、なんとなく不思議な縁を感じたものです。

父の治療に関しては家族で延命治療を行わないと決めており、本人にも状況が悪化した場合には延命は行わずなるべく苦痛の少ない方法をとると話していましたので、2週間ほど最初の病院に入院したのち、家の近所のホスピス的な役割のある病院に転院しました。

入院すると体を動かさなくなるので、この頃には体力も大分落ち、段々と食事も自分でとることが難しくなってきたので点滴による栄養投与になりました。

10か月といわれていた余命もすでに年内持つかどうか・・になっていました。

症状は一進一退を繰り返していたのですが、11月14日18時ごろ、
父が急変した・・お前の到着を待っていると連絡が入ったので、すぐに病院へ向かいました。

病院へ着くなり、ドクターから急変状態を抑えるために沈静化させる薬を投与するので承諾をしてほしいと言われました。

そして沈静化した後、再び目が覚めることはない可能性が大きいとのことでした。
父も苦しいので何とかしてほしいと訴えていて、その意味も本人は理解していると。

以前から延命は行わないと決めていたので、承諾し父のもとへ向かうと、激しい呼吸でのたうちまわるように苦しんでいました。

それを見たとたん、今まで抑えようとしていた感情があふれ出すかのように涙が止まらなくなり、声も出せず、ただ父の横にしゃがんで手を握り締めることしか出来ませんでした。

父の手を握るなんておそらく小学生低学年のころ以来でしょうか。
本当に30年以上ぶりのことだったと思います。

父はもがきながらも、ベッドサイドの柵を握り締め、一生懸命目を開き僕の目を見て「泣くな」と振りしぼるような声で言いました。

自分のことで精一杯のはずなのに。

僕は生れて初めて父に「今までありがとう」と言いました。
まともな声は出せなかったので、父に聞こえたかどうかは分かりません。

しばらくして注射の準備が整って、ドクターが父に最期の確認をとりました。
「もう二度と目が覚めなくなるかもしれないけど、楽になる注射を打つよ」

でも、そこで父の口から出た言葉は、、
「注射はいらん!」
「まだくたばってたまるか!」
でした。


そうとう長い時間苦しみましたが、1~2日もすると急変した時が嘘のように状態がみるみる良くなって行きました。

心拍も呼吸も落ち着き、少しなら会話もできるぐらいになったのです。
調子のよい時には少しですが口から食事も摂れるようになりました。

急変した時のこともちゃんと覚えていて、本当に苦しかったと言いました。
もう二度とあんな思いはしたくないと。

急変したきっかけが、おそらく適切ではない新しい薬の投与によるものだったので、それから父は新しい薬は全て疑い拒むようにもなりました。
(もし、父の病気が治る病気ならすぐに転院させたと思います。)

ベッドサイドの柵を強く握っていたのは苦しいからだけではなくて、何かを握っていないとどこかへ流されてしまうと感じたからだと教えてくれました。
まさしく三途の川にのまれまいと必死でしがみつき、こっちへ戻ってきてくれたのです。

ただ、僕から見るとこれだけいい状態であってもドクターの判断では11月いっぱい持つかどうかとのことでした。
そしてこのことをドクターは本人に話していました。

何回もしつこく聞かれたからやむなく教えたと。

それからは父は毎日のように11月30日までの日数を指折り数えていました。
「11月末まであと●日、これを乗り越えたらもう少し生きられるかな」
とよく言っていました。

「何いっとんねん!年も越せるわい!」
と言って作り笑いをしても涙が溢れ出そうとしてきました。

僕は仕事帰りに毎日父の所に行き、調子がよければ食べられる物を食べさせ、薬を飲ませひと段落したら帰るという日々を送っていました。
父は夜になると不安もあってなかなか寝付けず心もとないらしく、僕が来るのを毎日楽しみにしていてくれました。

僕自身40年間生きてきて、こんなに父と接したのは初めてです。
どこでも男の親子というのは大差ないとは思いますが、思春期の反抗期の流れそのままに、この何十年も父とは会話らしい会話をしたことはありませんし、朝食や夕食の時間も合わないので、まともに顔を合わすこともありませんでした。

こんなに父の顔を見て、一挙手一投足に気を配り世話をすることがあるなんて考えてもいませんでした。
体はしんどかったのかもしれないですが、不思議とその時間がとてもうれしく心地よいものでしたので疲れは感じませんでした。

父は眠りについてしばらくすると、両方の手を上にあげて動かしながらよく寝言を言っていました。
じっと聞くと、溶接をしたり職人さんに仕事の指示を出しているようでした。
この頃でもまだやはり仕事に対する情熱や責任を強く持っていたのだと思います。
もう一度職場に連れて行ってあげられたら・・と何度も考えました。

いつものように仕事帰りに病院へ寄ったある日、父はとても具合が悪そうで、食事はもちろん会話もままならず、大きく体を動かして呼吸するので精一杯でした。
そんな父を置いて病院からは去りがたく、結局催眠導入剤を飲ませ、午前1時ごろ病院を出ました。

その翌日(11月29日)、僕はまたいつものように21時ごろ病院へ行きました。
そうすると、看護師さんが僕に、
「お父さんが、『昨日は息子に遅くまで居させてしまったから、今日は息子が早く帰られるように22時頃には眠れるように睡眠剤を入れてほしい』って言ってきたよ」
と話してくれました。

その日も父はとても呼吸がつらそうで、本当ならもっと早い時間に睡眠剤を入れた方が楽だったはずなんですが、毎日楽しみにしている僕の顔を見てから眠りたかったようです。
そのうえで早い時間に帰らせてあげられるように22時に・・・という父の思いでした。

これは父が亡くなる数時間前のことでした。
自分のことでいっぱいいっぱいのはずなのに、僕のことを考えてくれていたのです。

そして22時頃睡眠剤を入れ始めたのですが、一向に父の様子が落ち着きません。
呼吸はどんどん荒くなり、SPO2(血中の酸素飽和度)の値も徐々に下がって行き始めました。

ドクターの判断は2~3日は大丈夫ということでしたが、しばらく様子を見た看護師さんは今夜がヤマかもしれないと話してくれたので、すぐに母と父の弟夫婦を呼び、その日は病院に泊まることにしました。

それから数時間状態はなかなか安定せず、ついに午前2時過ぎさらに状態が悪化し始めました。
全身を大きく震わせて呼吸をしても体内の酸素飽和度はどんどん下がっていきます。
ベッドのシーツ全体がびしょびしょになるほどの脂汗をかき、目を閉じ口を大きく開き、顔を大きくゆがませて・・・
何もしてあげられず、ただ見ている事しかできないのが本当につらい時間でした。

「むっちゃ苦しい」

もがき苦しみながら父が一言振り絞るように言いました。

僕は父の顔の前にしゃがみ、手を握って
「もうすぐ薬が効いて楽になるからな」
と言いました。

そうしているうちに今度は不整脈が出始め、さらに父は苦しそうにしていたのですが、僕が前にいるのが分かっていたのかいなかったのか・・・
ふと目を開けて僕の目をじっと見たのです。

力のない半開きのうるんだ目でじーっと僕の目を見ました。

焦点が合っていたのかどうか分かりませんが、
何かを訴えるような、
何かを伝えたいような、
そんな気がしました。

僕はもう我慢が出来なくなって、
「もう頑張らなくていいで、もう十分頑張ってくれた!」
と言いました。

母も反対の手を握り、
「お父さん、今までありがとう!」
と号泣しながら声をかけました。

父もまた強く手を握り返していたそうです。

父の弟が
「みんなおるぞ!分かってるか?」
というと、軽くうなずきました。

そしてしばらくすると、父の激しい呼吸は小さく浅くなり、ほぼ呼吸の止まった状態になりました。

僕には父は自ら努力呼吸をやめたのだと感じられました。

呼吸が止まってしばらくすると心拍数が60・・50・・40・・30・・20・・10・・と落ちていき、最後にはまさしくドラマのワンシーンであるのと同じように、心電図モニターのラインが一本線になり、ピーっという平坦な音になっていました。

父は僕と母の手を握ったまま逝きました。
おそらく最後の最期まで意識ははっきりしていたと思います。

父は入院中も腕時計を肌身離さずしていました。
最初は手首で止まっていた腕時計も、その時には肘まで来るぐらい腕は細くなっていました。

持ち主の心臓が止まっているのに、なお秒針を刻み続ける時計を見て、
「もう動かなくていいのに」
と思いました。

その腕時計は今僕の右腕にあります。

父も僕も左利きなので、腕時計は右腕です。
僕には少し大きく、それが逆に父のたくましさを感じさせてくれます。
日にちも時間もずれてはいますが、49日ぐらいまではつけていたいなぁと思っています。

肺がんと診断されてからわずか2ヶ月ちょっとの命でしたが、一生懸命生きてくれたと思います。
自分の命があと数日と分かっていてなお、周りの人や僕のことを最期まで気づかってくれて、自暴自棄にならず、ひたすら生きようと頑張ってくれました。

75年間、めいっぱい生きて、めいっぱい働き、家族を支えてくれました。

父が亡くなって、悲しくさびしい気持ちはいっぱいですが、半分はほっとした気持ちもあります。
父が苦しむ姿や、みるみるやつれていく姿を見るのは本当につらかったのです。

幸いにも、最期を僕たち家族が看取ることができた、一緒にいることができたので、それは本当によかったと思っています。


父の顔や言葉、手のぬくもり・・
最期に僕を見た訴えかけるような眼・・
はっきりと覚えている間にこれを書いておきたかったんです。

40年間生きてきて、父との思い出らしい思い出ははっきりとは浮かんできません。
だからこそ、父と過ごしたこの数週間の中身の濃い時間を忘れたくなくて書きました。

葬儀は家族葬で執り行いましたが、是非顔が見たいと、仕事関係の方が大勢来て下さいました。
父がどれだけ一所懸命働き、多くの人に慕われていたのか見せつけられた思いです。

誇らしくもあり、自分ももっとしっかりせねばと思いました。


おとん、ほんまにほんまに今までありがとうございました!!!




これを見て、前を見て歩いていきます。



http://www.youtube.com/watch?v=SRVFNGVnJWY&sns=em