料理のコミュニティを退会しました | まいすとれーじ

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今から2年前、私はある料理のコミュニティに入ったのですが、この度そのコミュニティを退会することにしました。

 

というより、訳あってそのコミュニティが今年いっぱいで閉鎖になりました。

 

 

なので、強制退会です(笑)

 

えーん。。。

無くなっちゃったよぉ笑い泣き

 

 

思えば、2年前にこのコミュニティに入ってから、あれだけ料理嫌いだった私が毎日料理をするようになり、すっかり自炊が生活の一部になりました。

 

私が何故料理が嫌いだったのかは、2年前に書いた以下の記事を参照してください。

 

 

この状態からスタートしたんですよ。

 

料理が嫌すぎて、キッチンに立つと涙が出てきて過呼吸を起こしていた状態から、自炊を始めたんです。

 

 

実家にいた頃の18年間、義務としてずっとやらされ続けたあの悪夢の料理のトラウマをこの2年で乗り越えましたよ。

 

正直今でも料理が楽しいとは思わないけど、キッチンに立つことは全く苦ではなくなりました。

 

 

かつて3歳の時に母親から料理を義務として押し付けられ、まるで奴隷のように毎日料理をせねばならなかったあの日々を、今では懐かしく思います。

 

何て言うかな。

 

料理に関しては憑き物が取れた感じ真顔

 

 

でもね、「納得していないことを強制的にやらされた」という料理以外の服従体験については、まだ乗り越えることが出来ていません。

 

奴隷としてたくさんのタスクを課され、それを拒否することすら許されなかった母親に対する怒りは、そう簡単には乗り越えられないのです。

 

 

そしてもう一つ。

 

私のように、親から強制的に家事だったり習い事だったり何かのタスクを押し付けられた人の中で、その嫌だったものがいつの間にか好きになって、ずっと続けちゃう人っていうのが一定数いるんですよね。

 

 

実はここにも心の闇があるんです。

 

 

例えば3歳になった時点で、親から強制的に料理というタスクを課された。

 

そうなると普通は、こちらの意思を確認することもなく、強制的に服従させられたことに強い怒りを持つはずです。

 

 

でもそうではなく、そのまま料理が好きになって趣味だったり、仕事だったりで続いちゃう人がいるの。

 

その理由って何だと思います?

 

 

私はこの2年間で毎日料理をしながら自分の人生と向き合っていたのですが、気付いてしまったんですよね。

 

第二の呪いに(笑)

 

 

 

泣くほど嫌だったものを続けてしまうことに、実はあるメリットがあるんです。

 

これに気付いた時、全身の血の気が引いて、しばらく息が出来なくなりました。

 

 

それが何かはメインブログの方に書きたいと思います。

 

ちょっとここでは書けない完全にブラックな話なので。

 

 

メインブログの方ではこの絶望シリーズは頻繁に出てくるので、そちらを日々お読みの方は特に何のダメージもないかもしれません。

 

またそのパターンかと思うくらいで(笑)

 

 

おかげでこの2年間、自炊も上手くなったけど、内観はさらに上達しましたデレデレ

 

人は自分を守るためだったり、隠れたメリットを享受するためだったら、何でもやる生き物です。

 

 

そこに気付けるかどうか。

 

それは問いかけの数が物を言います。

 

 

毎日2年間キッチンに立ちながら、料理を通して自分と向き合った日々は宝物となりました。

 

 

特に2年間自炊をして学んだのは、結局どういう在り方で生きるかが大事だということ。

 

おいしい料理があるから幸せというのはただの条件なので、そうではなくおいしい料理があってもなくても常に幸せであること。

 

 

料理はあくまでも一つの要素であって、その手前ですでに幸福な在り方が出来る自分がいること。

ここを2年間で再確認することが出来ました。

 

 

料理「が」自分を幸せにしてくれるという考えでは幸せにはなれないし、確固たる自分の在り方があったうえで、料理はあくまでも手段の一つにしか過ぎないというか。

 


「おいしいものを食べたから幸せになった」

 

これだと、あなたの幸せはおいしいもの次第なんですか?となりますからね。

 

 

まずいものしかなかったら不幸なんですか?

 

あなたの幸せは食べ物次第なんですかと。

 

 

この「おいしい食べ物が自分を幸せにしてくれる」という考え方は他人基準(物基準)なので、世の中からおいしい食べ物が消えた時点で、食べるものがない!となって不幸になります。

 

大事なのは自分基準で料理を捉えること。

 

 

料理という「物」が自分を幸せにしてくれるのではなく、まず自分がどう在りたいんですかというところ。

 

そこを明確にしたうえで、料理が自分にとってどんな意味を持っているのか決めていく。

 

 

結局私がこの2年間で着地したのは、手間をかけて作った料理でもマクドナルドのようなジャンクフードでも、どちらでも感謝して食べれるマインドを持つこと。

 

丁寧にだしを引いて作った料理を食べるのも幸せだし、常に企業努力を欠かさないマクドナルドのようなジャンクフードでも、手軽に食べれるその企業努力に感謝出来る。

 

 

つまりそのどちらもを一切ジャッジしない領域にいけたのが本当に大きかったです。


だって目指してたのは、善悪の思考を持たない、常に中庸にいるということですから。


 

これが2年間で理想的に達成出来たかなと。
 

外側の要素や手段に左右されずに、自分が常にどう在るか。

 

 

これが何事も大事だなと再認識しました。

 

もちろんここで料理を辞めるわけではないので、今後も引き続き自炊はしていく予定ですが。

 

 

ちなみに実家にいた頃の料理番時代で一番嫌だったのは、両親の友人たちから「おーい、ねえちゃん、料理持ってきて!」と座敷の部屋から大声で呼ばれること。

 

召使いかよびっくりマークって、かなり気分が悪かったですね。

 

 

大量の揚げ物を作らされて(ざっと20人分とか)、座敷の部屋まで運んで、また作って・・・というあの地獄を弟と一緒に体験した記憶は、今では大切な宝物・・・

 

になるわけないです(笑)

 

もう一生体験したくないわ笑い泣き