幸福感を感じること | まいすとれーじ

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今回もまた、今入っている某コミュニティのお題からブログを書いてみたいと思います。


今週提示されたお題はこちら。

 

「あなたはどんなことに幸福感を感じますか?」

 

これです。

 

 

私が幸福感を感じるのは、ただ一つ。

 

自己超越のステージにいる時のみです。

 

 

自己超越のステージが何かというと、自分の使命、生きる目的を淡々と遂行し、世の中に自分が生きた証を残しつつ、社会の役に立っている時です。

 

自分が何のために命を使うのか、その目的をハッキリとさせ、その事柄に没頭している時、強い幸福感と恍惚感でいっぱいになります。

 

 

逆に言えば、それ以外で幸福感を感じることはないということです。

 

何故なら、生きる目的以外の幸福感を感じる行為は、全てただの手段だからです。

 

 

例えば好きな人に会う、美味しいものを食べる、欲しい物を買う、好きなゲームをする、お気に入りの芸能人の推し活をする。

 

これらは全部手段です。

 

 

この手段に依存している時、確かに幸福感は感じるかもしれませんが、それは一過性のものであり、その時間が終われば幸福感はあっという間に消えていきます。

 

でも、人生の生きる目的そのものが幸福感と直結している場合、その幸福感は永遠に続きます。

 

 

この目的と手段の違いが明確に分かっているかどうかが、幸福な人生を送れるか否かを分けると私は思っています。

 

自己超越以外の喜びや幸せな気持ちはただの手段であり、それを追いかけると手段の目的化にハマって、一体何が幸福なのかがわからない状態になると思います。

 

 

なので、私にとっての幸福感とは、自分にとって明確な生きる目的があり、そのために命を使っている時に感じられるものであり、さらに何のためにそれをやっているのかが、完全に体感として腑に落ちている時にしか感じられないものという結論に今のところ至っています。

美味しいケーキを食べるとか、ダイエットに成功して綺麗になったとか、そういうのは極めて刹那的な快楽であり、それらの事柄で感じる幸せな気持ちというのは、本来の幸福感とは全く違うものだと私は考えています。

 

 

だからこそ、生きる目的がとても大切であり、何もやりたい事が見つかっていない人は、一刻も早く生きる目的を見つけて、自己超越のステージに行って欲しいと思っています。

 

そこで感じる幸福感と恍惚感を一度味わったら、生きることが本当に楽しくなるからです。

 

 

そしてもう一つ。

 

私は、幸福になることは人生の目的にはなり得ないと思っていますが、この話は非常に長くなるので、またの機会に書きたいと思います。

 

もし人生の目指す最終ゴールが「幸福になること」になっている人がいたら、幸福についてもっと考え直したほうがいいかもしれません。

 

 

幼少期に幸福体験が少ない人ほど、ないものねだりで幸福をゴール設定にしがちですが、幸福というのはただの通過点であって、最終ゴールにはなり得ないものです。

 

私もこの結論に至るまでに膨大な思考を繰り返しましたが、基本的に何が手段で何が目的なのか。

 

 

ここが腑に落ちて体験ベースで分かっていないと、幸福というのは非常に混乱するテーマなのです。

 

 

さらにもう一つ。

 

世の中には、無の境地に行くことが幸福だと勘違いしている人が一定数います。

 

 

私もかつてそうだったのですが、自分の欲や煩悩や感情は全て捨てて、ひたすら無の境地に行き、その世界に浸ることが幸福だと勘違いしていた時期が長くありました。

 

熱心に瞑想を行い、悟りの境地を目指す人がこれです。

 

 

残念ながら、このパターンの人が一番不幸になるので、間違っても悟りの境地なんか目指さないことです。

 

これをやると、人間離れした別の世界に足を踏み入れることになり、結果として幸福とはほど遠い闇の世界に転落していくことになります。

 

 

というわけで、幸福のもっと深い話は次回以降、またどこかで話したいと思います。