理性と感情 | まいすとれーじ

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私は基本的に、いつも心を中庸(ニュートラル)の状態に保っており、いちいち目の前の出来事には反応しません。

しかしそれは、常に感情より理性が優先されているからで、極めて冷静に状況を「感情」ではなく「思考」で見て、判断しているからです。


これにより、衝動的に動くことは皆無ですが、当然ながら相手の感情に寄り添う、共感するといった協調性に欠けるため、だいたいの場合「冷たい人」「心がない人」という評価になります。

(実際、共感する心は持っているのですが、感情を出すことにより、自分のエネルギーが枯渇するのがしんどいため、意識的に共感スイッチを切っています。)


この“感情よりも思考や理性が優先される”ことは、幼少期の育ち方に大きな原因があります。

私の場合で言えば、主に母親からの教育「いちいち思ったことを口に出して言うな」が強く影響しています。


痛いとか辛いとか苦しいとか、そういう気持ちを言葉にすると、容赦なく怒られる家だったので、当然感情は封印され、理性が優先されます。


しかし、社会というコミュニティの中で生きていくうえで、私のような冷静なタイプは、有事においては活躍出来ますが、

平時においては非常に損をすることが多く、特に人間関係においては、感情で人に寄り添える人の方が、圧倒的に有利です。


諦観は時に強みにはなりますが、幸福とはあまり関係がありません。


もちろんこの性格には利点もあって、目の前の出来事や感情に流されない分、本質だけを淡々と見て、着実に確かな人生を積み重ねていくことが出来ます。

そういう意味ではブレない強さや軸は持っているので、そこに魅力はあるのかもしれません。


ただ、それが幸福に繋がるかと言えばそうでもないのです。


私が最近特に意識しているのは、「自分の考え、その生き方が果たして本当に幸福かどうか」という問いです。

結局どこまでいっても個人VS社会の問題になるのですが、この辺はかなり細かく自己分析していて、在り方は常に模索しています。


ただ、総体的に幸せな人生を考えると、やはり私のような人間は損だという結論です。

正確に言うと40歳を超えた辺りから、この辺の問題がじわじわ効いてきて、もうどうにもならなくなります。


しかし人間とは面白いもので、私とは真逆の性格を持つ者は、目先の感情に流されることに悩み、私のように何にも動じず、淡々と生きれるような人間になりたいと言います。

私は、目の前の出来事に感情的になったり、取り乱した経験が皆無ですので、感情のコントロールが効かない人の気持ちが全くわかりません。


感情なんか、理性や思考で封じ込めればいい。

そんなの簡単だと思っていますが、どうやら皆はそうではないようです。


けれど、幸福な生き方を考えた時、最期に残るのは感情とともに刻まれた数々の思い出であり、それらをたくさん持っている人の方が、笑って死ねるような気がしています。


そしてなぜ、私がこのような厳しい教育をされたかというと、母も同じように育ってきたからです。

戦後の貧しい時代、食べ物もロクになく、「お腹がすいた」「ひもじい」と言うと、おばあちゃんから怒られたそうです。


お腹が空いたとか気のせいだ、いちいちそんな事で騒ぐんじゃない。


母は、自分がされた事を私に繰り返しました。

立派な毒親です。


しかし、このくだらない連鎖は私の代で止めます。

こんなくだらないゲーム、誰も幸せにはならないからです。