では、なぜ形が同じなら、大きさはどうでもいいのか。

それは目の構造を考えれば分かる。

目はカメラと同じようにできている。レンズを通った光は網膜に像を結ぶ。

その像の大きさは、見ている物体の距離が遠くなれば小さくなり、近ければ大きくなる。

生物は年中動き回るから、そういうことは絶えず起こる。だからといって、

それをいちいち「違うもの」と考えては具合が悪い。

 

ライオンがネズミの大きさに見えたところで、ライオンはライオンである。

ネズミだと考えていれば、目の前に来たときに、初めてライオンではないかと気付く。

 

★それではライオンに食われてしまう。

だからそういう生物はできたとしても、今はいない。

つまり、視覚系は、その中に絶対座標を持ち込むようには、進化してこなかった。

 

あえてそれをすれば、ずいぶん正確な目ができたかもしれないが、いちいち座標を定めるために計算量が膨大になり、

*いきなり大きな脳を作らなければならなかったかもしれない。

逆に、我々が「比例」とか「相似」を考えることができるのは、本来、視覚系にそういう性質が存在するからであろう。

目の網膜は、発生的、構造的には、実は脳の延長であり、相似とは、脳の一部がやっていることを、脳のどこかの部分がよく知っている、ということかもしれないのである。