視覚系は光を介して物の形を認知する。
形は触っても分かるから、視覚だけが形の担い手ではない。
更に、聴覚も形の認識に全く無関係とは言えない。
コウモリは、自分の出す超音波を利用してえさの虫を捕え、障害物を避ける。
そのためには相手の位置や大きさ、広がりを「耳で見ている」はずである。
ところで形はどこにあるのだろうか。
一つの見方では、形は物のほうにある。すなわち形は物の属性だと言う。
もちろんそうに違いない。「無いもの」は、どうやってでも「見えない」。
見えなくても、触ってみれば、ある程度形が分かる。
それは、物は本来、形を持つからである。
もう一つの見方では、形は頭の中にある。目がなかったら、物は見えない。
その目は脳に連絡している。確かに、触ってみれば物の形もある程度分かるが、
ゾウをなでてもとても「一目」では分からない。
形を知るには、触覚刺激がいったん脳に入り、
それを使って脳が改めて形を構成する。
目だって同じである。物が好んで形を作っているわけではない。
我々の頭が、形と称するものを、相手に押し付けている。
さて、この二つのどちらが正しいか。
それは考えても無駄らしい。
どちらが正しいかというのは、実は質問が悪い。
答えが出ないように、問題が立ててある。
形については、上記の二つの面、つまり自分と相手とを
共に考慮する必要があるから、話がめんどうになるのである。
目は大変有効な感覚器だが、余りに有効的なので、
有効ではない点に、案外気付かないことがある。
例えば、物の大きさが分からない。
そんなことはない。大きい小さいは見れば分かる。
そう言うかもしれないが、それは相対的な大小である。
顕微鏡で見た物の大きさは、倍率を知らない限り分からない。
見たこともないものが、宇宙空間にポッカリ浮いていたら。
だれでも寸法が分からない。
月と太陽は、同じような大きさだと昔の人は思っていただろうが、
実際の寸法はとんでもなく違う。
大きさを知るという、甚だ単純なことができないので、
人の世では、物差を売っているのである。
あんな簡単な器具はない。
それでも、大変便利なものである。
なぜそれほど便利かと言えば、視覚系だけに任せておくと、
大きさの絶対値が分からないからである。
それを幾何学に持ち込むと、比例あるいは相似になる。
相似というのは、形は同じだが、絶対的な大きさはどうでもいい。
それはまさしく、視覚系の性質である。
幾何学のように形を扱う数字が、視覚系の性質を持つというのは、
例えばこういうことである。
続く。。。