子供とは何だろう。そして、子供が大人になるとは、どういうことだろう。

思うに、それはこうだ。

子供は、まだこの世の中のことをよく知らない。それがどんな原理で成り立っているのか。まだよく分かっていない。では、大人は分かっているのだろうか。ある程度はそうだ。大人は分かっている。しかし、全面的に分かっているわけではない。むしろ、大人とは、世の中に慣れてしまって、分かっていないということを忘れてしまっている人たちのことだ、とも言えるだろう。

 

ソクラテスはかつてこんなことを言った。世の識者たちは、自分が大事なことを知らないということに気付いていない。つまり、分かっていないということを忘れてしまっている。それに対して、自分は知らないということを知っている。つまり、分かっていないということを忘れていない。この点で、世の識者たちよりも自分のほうが物事がよく分かっている、と言えるだろう、と。

 

「知らないということを知っている」ことを「無知の知」と言う。

知っていると思い込んでいる人は、もう知ろうとしないだろうが、知らないと分かっているなら、なお知ろうとし続けるだろう。知ることを求め続けるこの在り方を「フィロソフィア」と言う。「フィロ」とは愛し求めることであり、「ソフィア」とは知ることである。

 

つまり、「フィロソフィア」とは、知ることを愛し求めることを意味する。これが、哲学という言葉(英語ではフィロソフィ)の語源だ。だとすれば、子供はだれでも哲学をしているはずである。子供は確かに、自分が知らないということを知っている。ただ、子供はソクラテスと違って、大抵の場合、大人たちも本当は分かっていないのに、分かっていないということが分からなくなっているだけだ、ということを知らない。そして、「大人になれば自然に分かる」とかなんとか教えられ、そう信じ込まされて、分かっていないということが分からない大人へと成長していくのだ。

 

大人だって、対人関係とか、世の中の不公平さとか、様々な問題を感じてはいる。

しかし大人は、世の中で生きていくということの前提となっているようなことについて、疑問を持たない。子供の問いは、その前提そのものに向けられているのだ。世界の存在や、自分の存在。世の中そのものの成り立ちや仕組み。過去や未来の存在。宇宙の果てや時間の始まり。善悪の真の意味。生きていることと死ぬこと。

それに世の習いとしての論理(例えば、知っている人に会ったら挨拶するとか)の不思議さ。などなど。

こうしたすべてのことが、子供にとっては問題である。

 

子供は、時に、こうした疑問の幾つかを、大人に向けて発するだろう。だが、大抵の場合、大人は答えてはくれない。答えてくれないのは、問いの意味そのものが、大人には理解できないからである。仮に答えてくれたとしても、その答えは的外れに決まっている。せいぜいよくて、世の中で通用している建て前を教えてくれるか、なんだか知らないがそうなっているのだよ、と率直に無知を告白してくれるか、そんなところだろう。

子供は、問うてみても無駄な問いがあることを悟ることになる。つまり、大人になるとは、ある種の問いが問いでなくなることなのである。だから、それを問い続ける人は、大人になってもまだ〈子供〉だ。

そしてその意味で〈子供〉であるということは、そのまま、哲学をしている、ということなのである。