私は普段から思っていた。
いつ死んでもいいかもしれない、
むしろ、いつも自転車に乗っているときや
歩道を歩いているときなど、
誰か,車よ、私に突っ込んできてくれ!
と。
自分はやっぱり無益な人間だと思う。
何かを学んで身につけなきゃと思っても、
そんな気力も、目的も特になくて、
勉強していても、いつも眠くなるので
突っ伏して寝ていた。
しかし、やはり人間だからなのか、何かを学びたいという意思はあるようで
空きコマの暇な時間にふと図書館をぶらぶらすることがある。
気になる題を見つけては、一度に5,6冊手に取って、座る。
通常、本は頭から読む派なのだが、
結局飽きて眠くなってしまう。
その短時間で1冊すら読み切れるはずがないのに、
欲張りすぎてしまうのよなぁ。アホですね。
まあ、これは過去。もちろん未来にも99%起きるだろう。
でも今日思ったことがある。
実は友人が倒れてICUに移らなければいけない程
危険な状態にあったのだ。
非常に良かったことに、現在病状は安定している。
今日お見舞いに行ってきたのだが、
彼女はこんな風に運に振り回されて生きていくのは嫌だ、と。
そして、図太く生きていこうと言ったのだ。
ここで私は人生に対する考えの大きな差を感じたのだ。
私は彼女が「生きる」ことを意識しながら生きているのだと思った。
表現が微妙だが...(笑)
反対の私は、いつか誰かが私を車で轢いてくれて、
人生を終わらせることができるんじゃないかという前提が頭の片隅にあったと思う。
←他力本願なところがクソ
だからなんとなく、目標もなく、自分という箱にぶら下がって生きてきた気がする。
「これでいいや」「まあいいや」
って様々な事に妥協してきた先に在る自分ってのは本当に醜い。
自分が自分のこと好きになれないのに、
もし他人がそんな自分にプラスなことを言ってくれても、
それは受け入れられないじゃない?
自分が嫌いだと思っている自分を好きになってくれる人なんて信用できる?
と今日気が付いたんだよね。
もしかしたらこれが自分が人と親密になれない理由なのかもしれない。
少し考えれば分かったのかもしれないけれど、
心から思わせてくれたのは、その友人の凄い所、魅力を改めて感じたから。
この数年で、彼女はすごく変わった気がして、
それは自分をより良くするために努力したり研究しているんだろうな~とか、
一方で素直さとか寛大さみたいな根幹は全然変わっていないところ、
そんなところに尊敬するから。
自虐していることもあるけど、
本当は、すごく良い意味で、自分のことを好きなんだろうなと思うし、
堂々として見える。
それは彼女には何かしらの「なりたい像」があるんじゃないだろうか。
もう「今後」という漠然としたものに振り回されないで、
自分が好き!と思える自分に成れるように、
一つ一つの判断を大事にしていきたい。
もちろん、自分は優秀でも、価値のある人間でもない。
でもそれは人生の結果じゃない。経過にすぎない。と信じる。
まずは、自分が決めたこと、すなわち
「自分との約束」は必ず守るようにして、自分を信じられるようになろう
自分がかっこいいと思う道に進めばいいか。
自分のための自分のあり方を模索しよう。
有言不実行委員会会長でした。
(↑そんな会ありません)