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中田 翔 北海道日本ハムファイターズ #6
Sho Nakata on April 3, 2012.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市中区
生年月日 1989年4月22日(23歳)
身長
体重 182 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 左翼手、一塁手
プロ入り 2007年 高校生ドラフト1巡目
初出場 2009年5月23日
年俸 8,500万円(2013年)
経歴(括弧内は在籍年)
大阪桐蔭高等学校
北海道日本ハムファイターズ (2008 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
WBC 2013年
この表について[表示]
中田 翔(なかた しょう、1989年4月22日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(外野手、内野手)。
目次
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 選手としての特徴
3 人物
4 応援
5 詳細情報
5.1 年度別打撃成績
5.2 年度別守備成績
5.3 表彰
5.4 記録
5.5 背番号
5.6 登場曲
6 関連情報
6.1 著書
6.2 テレビ出演
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
経歴 [編集]
プロ入り前 [編集]
中学校は広島市立国泰寺中学校に進学。広島鯉城シニア時代は連盟記録となる通算51本塁打。リトルシニア全日本選抜ではアメリカ遠征で4本塁打を打ち、投手としても141km/hを計測した。
大阪桐蔭高校に進学すると、1年夏には五番・一塁手でレギュラーとなり、投手としても最速147km/hを計測。秋からはエースで四番を任され、2年春には151km/hまで球速が伸びた。2年時は肩の故障で投手としては活躍が出来なかったが、四番・右翼手として出場し、打者として大阪大会新記録となる4試合連続本塁打、甲子園では推定飛距離140メートル弾、更に秋季近畿大会では和歌山県営紀三井寺野球場で推定飛距離170メートルの本塁打を打つ。この頃から「平成の怪物」と呼ばれるようになる。3年生時の7月6日、全国高校野球大阪大会直前の練習試合・生野工業高校戦にて当時の高校通算本塁打の新記録となる87本目の本塁打を記録。大阪大会の決勝ではエースの植松優友を擁する金光大阪高校と対戦し、投手としては初回に3失点、打撃でも厳しいマークに遭い5打数無安打と振るわず、チームも敗戦し甲子園出場を逃した。高校通算87本塁打、甲子園でも歴代7位となる4本塁打を打った。
2007年10月3日のプロ野球ドラフト会議(高校生対象)においては、佐藤由規、唐川侑己と並んで「高校ビッグ3」と呼ばれ、北海道日本ハムファイターズ、阪神タイガース、オリックス・バファローズ、福岡ソフトバンクホークスに1巡目で指名され、抽選で交渉権を獲得した日本ハムに入団。同年11月6日、高卒新人としては史上5人目となる契約金1億円、出来高5000万円、年俸1500万円(推定)で契約。背番号は同年オフに現役引退した田中幸雄の6を引き継いだ。
プロ入り後 [編集]
2008年、守備位置は高校時代の投手と外野手ではなく、三塁手を志願し球団の育成方針とも一致したことから三塁守備での練習を始める。しかし、オープン戦から木製バットへの対応に苦しみ、開幕を二軍で迎えた。6月に左手首を骨折(全治1カ月)。打撃フォームも固まらず、二軍で11本塁打を記録するも打率.255に終わり、一度も一軍に昇格することはなかった。
2009年3月、三塁手としては使えないと判断され、一塁手に専念。同年5月、二軍での好成績が評価され、初めて一軍に昇格。5月23日の東京ヤクルトスワローズ戦で七番・指名打者としてプロ初出場、プロ初安打を記録。5月25日の中日ドラゴンズ戦では途中出場ながら初めて守備機会のある一塁手の守備にも就いた。交流戦終了後に二軍へ降格。7月23日のフレッシュオールスターゲーム(札幌ドーム)ではイースタン・リーグ選抜の四番に座り、2安打2打点でMVPを獲得。同リーグ史上最多のシーズン本塁打30と史上最多タイの打点95を記録し二冠王を獲得、打率も.326でリーグ2位と好成績を残し、プロ野球コンベンション2009にて特別賞を受賞した。シーズン終盤に故障者が続出し、再び一軍に昇格、9月26日には一塁手としての先発出場も果たし、9月27日に犠飛でプロ初打点を挙げた。また、日本シリーズにも第3戦で代打で初出場した。一軍での出場機会を増やすため、シーズンオフより外野手へ転向した(登録は内野手のまま)。[1]
2010年、長距離打者であるターメル・スレッジの退団と、レギュラー左翼手だった森本稀哲が故障で離脱した事もあり、開幕戦で七番・左翼手として自身初の開幕戦先発出場を果たし、杉内俊哉から自身初の2点適時打を打つ。その後も主に相手先発が左腕投手の試合で先発出場し、左翼手の守備も無難にこなしていたが、4月18日の試合を最後に二軍落ちする。その3日後の21日の二軍の試合で左ひざ半月板を損傷。5月10日に手術を受けた。[2]7月19日に一軍昇格。七番・指名打者として先発出場し、復帰後初安打。翌20日の千葉ロッテマリーンズ戦にも先発出場し、大嶺祐太からプロ入り初本塁打(公式戦91打席目)を打った。8月6日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦では栂野雅史と青山浩二から2打席連続本塁打を記録した。夏場には金子千尋、涌井秀章、和田毅、田中将大らエース級の投手から立て続けに本塁打を打ったが、9月に入ると調子を落とし、最終的には打率.233、本塁打9、打点22に終わった。なお、9本の本塁打は7月20日から8月20日までの約1ヶ月間に打ったものである。
2011年は開幕から19打席無安打とスタートに苦しむもその後は成績を伸ばし、小谷野栄一の離脱中は四番打者に抜擢されるなどチームの主軸となり、初のオールスターゲーム出場も果たした。後半戦は不振に陥り、原因不明のめまいなどにも苦しんだがシーズンを通してレギュラーとして起用され、初の規定打席到達に加えともにリーグ3位となる18本塁打、91打点をマークした。しかし規定打席到達者ではリーグ最多と1個差の133三振、打率.2371はリーグワースト2位、出塁率はリーグワーストの.283に低迷し、OPSも.700を切ってしまった。
2012年、1月11日に高校の同級生と結婚したことを発表[3]。シーズンでは開幕6試合目第3打席までの24打席に安打が出ず(25打席目で本塁打)、前半戦は打率1割台と不調であったが、同年より監督を務めた栗山英樹は不調の時期でもレギュラーシーズンの全試合に中田を四番打者として起用し続けた。8月から徐々に調子を上げていき、後半戦は打率.293、14本塁打、OPS.882を記録。シーズン通算では打率こそリーグワースト3位の.239に終わったが、リーグ2位の24本塁打、同3位の77打点をマーク。内容的にも前年に比べて三振を減らし、より四球を記録し、BB/Kを向上させた。また守備面では外野手としてリーグトップの19補殺を記録し、そのうち9が併殺であり、中日の原田督三、松竹の岩本義行の外野手シーズン併殺数のプロ野球記録を62年ぶりに更新した[4]。
ポストシーズンではクライマックスシリーズ、日本シリーズでも全試合4番として出場する。しかし、10月28日東京ドームでの日本シリーズ第2戦の1回表に澤村拓一から死球を受け左手を負傷し、4回裏の守備から途中交代した。痛みを堪えて第3戦以降も左翼手で強行出場し、第4戦では0-0の9回表の二死満塁のピンチの場面で左中間に抜ける打球を好捕して味方の失点を防ぎ、第6戦では6回表に自身のポストシーズン初となる3ラン本塁打を放つが、日本シリーズでは結局この1打席の3打点に終わるなど、不完全燃焼となった。シリーズ終了後には左手第5中手骨を骨折していたことが判明した。第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表候補に選出され、監督の山本浩二から4番候補として期待されるが、初陣となる11月の侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」では前述の骨折により試合には出場できなかった。
2013年1月15日には第1子となる女児が誕生した。
選手としての特徴 [編集]
中田のスイング(2009年の日本シリーズにて)
高校時代に推定飛距離170メートルの本塁打を放った日本人離れした長打力を持ち味とし[5]、体勢を崩されてもスタンドにボールを運ぶ[6]。初球から積極的に振っていく打撃で[7]、四球率は通算6.7パーセントと平均的だが、2011年にはボールゾーンのスイング率が30パーセントを越えるなど選球眼に難がある[7]。
打撃フォームの変遷が激しく、2011年には脇をしめて足をガニ股に開くノーステップ打法に取り組む[8]。しかし下半身に負担がかかるため後半戦からはガニ股をやめ、打撃コーチの福良淳一やチームメイトの稲葉篤紀からアドバイスを受けながらすり足打法に取り組んだ[8]。この年のオフにはケビン山崎の指導を受けて下半身を強化し、ガニ股打法を1年間継続させることを目指したが[8]、翌2012年は5月まで打率.169と不振に陥り、同月下旬からは福良の指導を受け左足を軽く上げるオーソドックスなフォームとなった[9][10]。
走塁面では一塁到達4.3秒台[11]と右打者としてはスピードは平均的で、盗塁試行数は少ない。守備では主に左翼手として起用される。チームメイトの小谷野栄一から「150キロくらい出ている」と言われ[12]、高校時代に投手として最速151km/hを記録した強肩からの正確な送球を持ち味とし[13][14]、2011年と2012年にはリーグ最多の補殺を記録。プロ入り以来守備が課題とされていたが、2012年には糸井嘉男、陽岱鋼とともに球界屈指の外野陣と呼ばれるようになった[15][13]。左翼手の他、一塁手として起用されることもある。
人物 [編集]
ヘルメットと帽子のつばに「克己心」という言葉を書いている[16]。
チーム屈指の歌唱力を誇ると言われ、カラオケでの十八番は松山千春の「大空と大地の中で」だという[17]。
高校の先輩である西岡剛と親交が深く、例年自主トレをともにしている[8][18]。
2007年のドラフト会議後、佐藤由規、唐川侑己とともに『すぽると!』(フジテレビ)に出演した際には、「尊敬する人は?」との質問に対し「清原和博さんです」と答えた。清原本人も、中田に対して「俺の後継者」と期待を寄せた。
2011年まで同僚だったダルビッシュ有と渡部龍一を慕っている[8]。ダルビッシュからは「日本記録の56本塁打を打つまで認めない」[19]などと叱咤され、ダルビッシュのメジャー移籍後も言葉をかけられている[20]。2012年には前年に戦力外通告を受け退団した渡部のラッキーカラーである紫色のグッズを身につけて試合に臨んだ[8]。
応援 [編集]
中田に対してホームランコールを行う際、3回目のコールに名字を連呼した後は、翔の名前で締める(その際、メガホンを持っていれば、前に振り出す)。
※ウィキペディアより抜粋
2013WBC Tシャツ発売予約開始
http://p.tl/U-vG
