目次
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 ダイエー・ソフトバンク時代
1.3 巨人時代
2 選手としての特徴
3 社会福祉活動・慈善活動
4 人物
5 詳細情報
5.1 年度別投手成績
5.2 タイトル
5.3 表彰
5.4 記録
5.5 背番号
5.6 登場曲
6 関連情報
6.1 著書
7 注釈
8 関連項目
経歴 [編集]
プロ入り前 [編集]
大野城市立大野小学校、大野城市立大野中学校、鹿児島実業高等学校卒業。小学4年生の時に大野城少年野球に所属し野球を始めた[2]。当時は外野手で、5年生で一塁手。6年生の時に投手に転向し、エースとして全国大会に出場(ベスト16)。小学生の時はドッジボールが得意だった[2]。中学時代は市の少年硬式野球チーム(大野城ガッツ)のエースで、チームを全国準優勝に導いた。鹿児島実業高等学校時代の同級生に椎原拓也。在学中2度甲子園に出場。
高校3年生次の1998年、全国高等学校野球選手権鹿児島大会決勝では、共に当時から注目を集めていた川内高校の木佐貫洋との投げ合いに勝利し、甲子園出場を決めた。県大会では47回2/3で64三振を奪い、「南国のドクターK」と称された[3]。第80回全国高等学校野球選手権大会の1回戦で八戸工大一(青森)相手にノーヒットノーランを達成。同2回戦で松坂大輔らを擁する横浜(東神奈川)と対戦するも、松坂に本塁打を喫するなど8回6失点で敗退。大会後に松坂や新垣や村田修一や上重聡と共に第3回AAAアジア野球選手権大会日本代表に選出され中村順司監督の期待に応え優勝に貢献した。
高校卒業後、三菱重工長崎に就職。2000年には都市対抗野球大会出場に貢献。大会直後にシドニーオリンピック野球日本代表に選出され、オリンピックに出場(4位)。2001年の日本選手権ではチームの初優勝に貢献。ドラフト会議で地元プロ球団の福岡ダイエーホークスに3巡目指名され入団。自身が憧れていた工藤公康と同じ背番号47番を与えられる。家族(結婚前は母・姉・祖父母)を非常に大切にしダイエーとの契約金で母と姉と祖父母のためにマンションをそれぞれ購入した[4]。ホークスでチームメイトだった本多雄一は、大野城ガッツ・鹿児島実業高等学校の後輩。
ダイエー・ソフトバンク時代 [編集]
ソフトバンク時代
ルーキーイヤーの2002年はフレッシュオールスターゲーム出場し一軍レギュラーシーズン2勝に終わる。2003年にフォームをセットポジションに変更して制球が安定[5]。先発ローテーションに定着して10勝を挙げ、リーグ優勝に貢献する。8月1日の対オリックス戦に先発し、7回無失点でチームが2リーグ制以後の最多得点試合・最多点差試合(29-1)を記録した試合の勝利投手になった。日本シリーズでも阪神から2勝を挙げ日本一に貢献、シリーズMVPを獲得。シーズンオフに、とべとべホークスのレポーターだった上葉えりかと結婚。
2004年、6月1日の対ロッテ戦に2回7失点で降板直後、悔しさのあまり、帽子とグローブを投げつけた直後、ベンチを殴打して両手の小指付け根を骨折。この行為に対して球団から罰金100万円・謹慎10日を科せられた。事態を重く見た球団は後日罰金を増額、罰金は600万円となった。[6]長期離脱を余儀なくされ、この年はこの日が最後の先発登板となった。
2005年、4月、5月と2ヶ月連続で月間MVPを獲得。チームでは杉浦忠以来4人目となるシーズン200奪三振(218)を達成。18勝、防御率2.11で初の最多勝・最優秀防御率・沢村賞(パ・リーグの左腕投手の受賞は史上初)のタイトルを獲得。MVPにも選出された。死球・暴投・ボーク・失策がいずれも0であった。
2006年、ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出。2試合に登板し0勝1敗、防御率5.40。レギュラーシーズンでは中盤以降失速し、規定投球回数に届かず7勝に終わった。プレーオフでは第2ステージ第1戦で先発し、3回2失点で敗戦投手になった。
2007年、前半戦終了時点で12勝2敗、防御率1.755と抜群の成績を残す。後半戦は失速し、3勝にとどまるものの、2年ぶりの2桁勝利となる15勝を挙げて先発陣の軸として活躍。ロッテとのクライマックスシリーズでは、7回3失点で勝利投手となった。洞爺湖サミットが開催される2008年7月7日までの一年間、広報大使“Cool Earth Ambassador”を務めた。
北京五輪での杉内(2008年)
2008年、2年連続2桁勝利を達成。交流戦期間では12球団トップの48個の三振を奪った。北京オリンピック野球日本代表に選出され、2試合に登板し1勝0敗・防御率0.84の成績を残す。10月1日の対オリックス戦(京セラドーム大阪、清原和博の引退試合)に先発登板し、清原の打席では全球速球で勝負した。清原の最終打席の球は球審を務めた東利夫から清原に手渡されたが、清原はボールに『杉内へ 最高の球をありがとう 清原和博』とサインして杉内に贈った。王貞治が指揮する最終戦となった10月7日の対楽天戦で、9回無失点で11個の三振を奪い、ダルビッシュ有を抜いて初の最多奪三振のタイトルを獲得した。3年振りの200奪三振を達成し、奪三振率は9.78で両リーグ1位を記録した。
2009年からグラブの位置を上げ、左手が隠れるようにした投球フォームに変更[7]。ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれ、5試合に中継ぎとして登板し6回1/3を無安打無失点と、日本チームの2連覇に大きく貢献。「陰のMVP」と称された[8]。4月5日の対オリックス戦で史上122人目・現役では8人目となる通算1000奪三振を、現役では2番目・歴代4位のスピード(979回1/3)で達成。交流戦では12球団最長の44回を投げるなど負けなしの3勝を挙げてチームの交流戦連覇に貢献し、交流戦のMVPに選出された。6月度の月間MVPにも選出され、6度目の月間MVPはパ・リーグ投手部門史上最多となった。8月23日の対日本ハム戦で先発選手全員から三振を奪い、自己最多の15奪三振。9月20日の対西武戦で10奪三振し、1993年の野茂英雄以来史上2人目、左腕では史上初の5試合連続2桁奪三振を達成。2年連続の最多奪三振、最優秀投手の二冠を獲得した。クオリティ・スタートは23を記録し、QS率(QS/先発回数)は88.5%で12球団トップであった。2009年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ第1ステージでは、楽天に3回途中7失点でKOされた。12月25日に投手では球団史上初の3億円で契約更改した。オフには同級生の新垣渚が杉内の妻の妹と結婚したことで、義兄弟になった。
2010年、4月30日の対ロッテ戦で7回5失点ながら6勝目を挙げ、1968年の鈴木啓示以来42年ぶり、球団では1957年の木村保以来53年ぶりとなる4月中の6勝を達成。オールスターファン投票最終中間発表の時点ではダルビッシュ有に次いで2位だったが、最終的には1位となりファン投票で初選出された(過去4回は監督推薦)。6月29日の対ロッテ戦で4年連続2桁勝利となる10勝目を挙げ、8月21日の対楽天戦で自己最速となる150km/hを計測し、9月11日の対日本ハム戦で3年連続200奪三振を達成。リーグ2位となる5回の完封勝利のうち4回は日本ハム戦(4月9日、7月6日、8月14日、9月25日)であり、1995年に斎藤雅樹がヤクルト戦で記録して以来、パシフィック・リーグでは1978年に鈴木啓示が南海戦で記録して以来32年ぶりとなる同一カードでの4完封を達成した[9]。杉内は印象に残っている試合としてマジック2で迎えた9月25日の日本ハム戦でダルビッシュと投げ合って完封した試合を挙げている[10]。この試合まで4試合勝ちがつかなかった不甲斐無さと責任からこの日のお立ち台で涙するというシーンがあった。防御率は規定投球回に到達したシーズンでは最低だったが、リーグ2位の援護率が12球団2位の6.97を記録するなど打線の援護もあり、自身2番目に多い16勝、2年連続となる最優秀投手のタイトルを獲得。奪三振率はリーグ最高の10.74を記録し、自己最多の218個だったが、3年連続奪三振王のタイトルには届かなかった。優勝を決めた最終戦ではチームメートに胴上げされた。2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズでは、ファイナルステージの初戦と最終戦の先発を任されるが2試合とも敗戦投手となった。
2011年、4月は防御率1.64と成績を残したが0勝1敗に終わりプロ10年目で初の4月0勝に終わる。5月14日の西武戦で自己最多タイとなる15奪三振を記録して初勝利[11]。6月18日の対横浜戦で6回に1500奪三振を達成[12]。交流戦では3勝し交流戦の優勝に貢献した。7月9日の対ロッテ戦で、球団の福岡移転後の入団選手としては初となる通算100勝を達成した。シーズンを通して打線の援護に恵まれず自身初となる防御率1点台を記録、QS達成率も91%を記録するも5年ぶりに二桁勝利を逃した。2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズファイナルステージ第3戦(対西武戦)に先発。涌井秀章との投手戦となり9回を無失点に抑えたが、10回に先制を許して降板。しかしその裏に味方打線が涌井を攻略したため自身に負けはつかず(偶然にも2人が打たれた時の球数は127球目で同じであった)、チームはこの試合にサヨナラ勝ちで日本シリーズに進出を決めた。日本シリーズでは第2戦と第7戦に先発。第2戦は8回1失点に抑えるもののチームは敗戦。第7戦では7回無失点と好投しチームを日本一に導き優秀選手賞を受賞した。しかし4年連続2桁勝利などの活躍も球団から高く評価されず[13]、それをきっかけにオフにFA権を行使し、12月19日に読売ジャイアンツへの移籍を表明し、4年総額20億円で契約を結ぶ[14]。
巨人時代 [編集]
2012年4月1日の移籍後初先発となったヤクルト戦で勝利投手となった[15]。FA移籍で巨人入りした投手の初登板勝利は2000年の工藤公康以来2人目。また、巨人移籍初登板の投手がチームの初勝利をもたらしたのは1965年の金田正一、1966年の久保田治、1976年の水谷孝に次いで36年ぶり4人目。この日は自身がダイエー(現在のソフトバンク)時代にプロ入り初の勝利投手となった日でもある。5月4日の甲子園球場での阪神戦で移籍後初完封を挙げた。
ウィキニュースに関連記事があります。
巨人・杉内投手、無安打無得点試合達成
5月30日の楽天戦(東京ドーム)でプロ野球史上75人目(86例目)、セ・パ交流戦ではリック・ガトームソン以来2人目(日本人選手の達成は史上初)となるノーヒットノーランを達成(9回2死まで1人も走者を許さず。あと1人で完全試合達成という場面にまで迫ったが、9番・田中将大への代打・中島俊哉に四球を与えた)。巨人の背番号18をつけた選手では中尾碩志と堀内恒夫に続き3人目のノーヒットノーラン達成者となった(中尾と堀内はいずれも後楽園球場での達成であるため、東京ドームでは初となる)。また、高校野球の全国大会とプロ野球の双方での達成も史上初となった。この試合での楽天野手全員の年俸を合わせても杉内一人より低く、星野監督は前日に「メジャーとルーキーリーグの対戦。勝ったら痛快や」とぼやいていた[16]。オールスターファン投票では前田健太に届かず2位となるものの、選手間投票では全785票中426票を集めて2位の前田健太に331票差の大差をつけ6年連続7度目のオールスター出場を決めた。7月27日の対広島戦に先発し、勝利投手となったことで史上2番目の「近鉄を含めた全13球団から勝ち星を挙げた投手」になった(史上初は工藤公康)[17]。 前半戦は防御率1点台前半以下を記録し、オールスター前に9勝を挙げる等エース級の活躍を見せたが、8月23日の左肩違和感による登録抹消や援護率の低さもあって、最終的には12勝・防御率2.04に終わったものの、能見篤史(阪神)と並ぶ172奪三振で史上初となる両リーグでの最多奪三振を獲得し[18]、勝率でもリーグ一位を記録した。被打率、WHIP、FIP、QS率といった各種指標ではいずれもリーグトップの成績であった。ポストシーズンでは出番がなかった。
選手としての特徴 [編集]
投球前、腕を頭上へかざす動作
ランナー無しの状態からでも、セットポジションからバランスのとれたゆったりとしたフォームで投げ込み[19]、投手の手本として取り上げられることも多い。投球前には腕を上げて余分な力を抜き、投球時に膝の前で両手を叩き合わせて打者に軽い気持ちで投げているように見せて球をより速く見せるといった工夫もしている[20]。
スリークォーターから平均球速約140km/h[21]、最速150km/hのストレートにカーブ、スライダー、数種類のチェンジアップ(サークルチェンジ、無回転のチェンジアップなど)を武器とし[22]、通算の奪三振率は現役の先発投手中最高の9.47を残しており、本人も「追い込んだら狙っている」と意識しているという[23]。一方で近年は球数が増え、与四球率が悪化している傾向にある。
ストレートはそのほとんどが140km/h前後のスピードだが「腕を振ってから球をリリースしている」と形容されるほど球持ちが良く、上原浩治が理想の形に挙げているなど、三振を奪う武器となっている[24][25]。2009年シーズン中盤から「ストレートと同じ振りで投げられるようになった」とチェンジアップを多投するようになり、同年の被打率は.143を記録し[22]、三振を奪う決め球の1つとなった[26]。すぽるとの「プロ野球選手100人に聞く、打ちにくい投手ランキング・変化球部門」で杉内のチェンジアップが4位に選ばれ、ダルビッシュ有も他球団の選手で「『この人の変化球はすごいな』と思うのは誰ですか?」との質問に杉内のチェンジアップを挙げており[27]、メジャーのスカウトからもカーブと共に高い評価を得ている[28]。高校時代には曲がりの大きなカーブを投げていたが、現在はカウント球として投球割合の数パーセントしか投げなくなり、当時とはフォームが違うため投げると肩が痛くなるという[29]。
斉藤和巳、和田毅、新垣渚と共にかつてはホークス投手の四本柱と呼ばれていた。斉藤が故障でシーズンを棒に振り、新垣が不振に陥った2008年からは、和田と共に「ホークスのエース」とも言われていた。プロ入り6年目まで成績の良いシーズンと悪いシーズンの差が顕著で、それが交互に訪れたため、「隔年エース」と呼ばれることがあった[30]。本人もそれを気にしていたが、7年目の2008年に10勝を挙げ自身初の2年連続2桁勝利を達成。最多奪三振のタイトルも獲得し、その汚名を返上した。2010年までに4年連続2桁勝利、3年連続で主要タイトルを獲得している。山崎武司は「個人的にはコイツだけは打てないな」と思う投手に杉内を挙げている[31]。ただ投げられているだけでも全然タイミングが合う気がしないとのこと[31]。
クリネックススタジアム宮城を苦手にしており鬼門と呼ばれている。2006年4月2日以来勝てていなかった[32]が、2010年8月21日に4年半ぶり、実に1602日ぶりに勝利を上げた。この試合で直球の自己最速(150km/h)を更新した。 千葉マリンスタジアムは得意にしており2003年の7月18日以来負けていなかったが、2011年4月30日のデーゲームで8年(2843日)ぶりに黒星を喫した。 この年から導入された統一球への対応が遅れ、マリン特有の強い風の中で決め球であるチェンジアップのコントロールが定まらなかったのが原因と言われている。
5月に強く『ミスター・メイ』の異名をとり4年連続無敗の14連勝を記録したことがある[33]。2005年と2007年が5勝、2008年と2012年は4勝。いずれも無敗で月間MVPを獲得しているが、2009年は後続が打たれて3勝(無敗)に留まり受賞を逃した(ダルビッシュ有が受賞)。2012年にはノーヒットノーランも5月に達成している。また、各シーズン初登板は11戦8勝(1完封)無敗で、勝ち負けがつかなかった3試合は全てチームがサヨナラ勝ちしている。
社会福祉活動・慈善活動 [編集]
「杉内基金」を設立し、2005年までは車いす、2006年からは1勝ごとにAEDを寄贈している。2010年から日本骨髄バンクにドナー登録している。
東日本大震災の復興支援のため今季(2011年)から日本一になるまで公式戦での球数1球につき1000円の義援金を送ることを発表した[34]。
人物 [編集]
この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。
出典を明記するためにご協力をお願いします。(2011年6月)
左投げだが、筆記・食事では右利き。母親が「左利きの人が好きだから」という理由で杉内を左投げにした。筋力トレーニングに「加圧トレーニング」を利用している。プロ入り前に「プロでやっていくには体が小さすぎる」と言われたため、早急に筋肉量を増やす必要があったからだという。
ヤフードームでの登板の日には、ゲン担ぎで登板前に自宅のトイレ掃除をしていた[35]。
吉川晃司のファンで、球場入りする愛車の中ではいつも吉川の曲を流している[36]。2011年頃から本人との親交もあり、巨人移籍後の2012年シーズン開幕直前には花束が届けられたという[37]。
子供の頃から大の巨人ファンであり、原辰徳のファンである。後のFAでの巨人入りの際には原から直々に電話で入団の誘いをもらい、入団を決意した[38]。
wikipediaより
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