「多様性とは、弱者救済のことではありません」と昨日とある先生が講演をされた。

 

その先生は、自らを「中身はおじさん」と言ってはばからない50代女性。

そこには百名以上の経営管理職が聞き手として座っていた。

9割が男性。9割が50代後半以上。

 

彼女は言う。「最少多様性を目指しましょう」

 

限られた時間。求められる成果。激しい競争。

この前提の中にあっては、正しいのかもしれない。

 

ところで「弱者」とは、いったい誰を指しているのだろう。

 

多くの男性の中で、腫れ物のように扱われる女性だろうか。

その時その条件では、成績を出せなかった者のことだろうか。

家族や社会的条件の中で、仕事に使える時間を限られた人のことだろうか。

 

強者がいて、弱者がいる。

強者はいつも強者で、弱者はいつも弱者。

弱者は、強者に救済されるもの。

 

そういう世界観が、この人物から伝わってくる。

自分はもちろん、強者のつもりだろう。

 

「多様性は、弱者救済ではない。」

この言葉は、彼女にとって多様性を心底面倒くさいと思っている人たちと会話するための、通行パスのようだった。

 

年齢と、バックグラウンドと、考え方と、使う言葉と、あらゆるものが違う。

それでも、縁あって、何かを目印にして、集まった仲間たち。

その中で、強者・弱者とを分けることの意味は何だろうか。

 

そうじゃないと、株価が上がらないから。

そうしないと、競合に勝てないから。

 

本当だろうか。

男たちが、24時間仕事のことだけを考えるという前提で作ってきたシステムを、

後生大事に守り続けるために、条件の違う誰かのことを弱者に位置付けて、

人が足りないから、新しいアイデアが欲しいから、少しだけの違いは許していこう、なんて。

 

多様性のチームで、社会的に意義のあるインパクトを出したい。

自分自身もうまくやれていることばかりではないから、目下模索中ではあるが、

とりあえず、自分が目指す世界観ではない、と確認しておきたい。

 

その後の交流会にクライアントと出席した。

彼は北海道で頑張っているクライアントで、「私は、彼のコーチです」と言ったら、

クライアントの同僚の男性が、「すすきのでお世話になってるんですか」と嬉しそうに言った。

クライアントが慌てて彼を制したけれども、これが日本の現在地だ。