広福女王♡仙台334の広福菜根譚その12

市名を投票で福岡にした代償であるというが・・・。

福岡県の玄関口といえる駅は山陽新幹線の駅である「小倉駅」と「博多駅」ですが
二つとも市名の「北九州」「福岡」を名乗ってません。北九州市に関しては小倉の他、
門司、戸畑、若松、八幡の5市の合併で出来た都市なので理解はできます。

しかし福岡市の玄関といえる駅の名前が博多なのは何故なのか?

これは以前から福岡が市になる時、市名を福岡にするのか博多にするのかで揉め
多数決で福岡に決まった、という話は比較的有名だと思います。

しかし、この多数決で決めた詳細の経緯については殆どの人達は分からないのでは
ないでしょうか?

投票日の博多側の議員4名の欠席。

実はこの福岡の市名を決めるのに福岡側と博多側で非常に揉めたらしく
福岡側は妥協案として鉄道駅の名前を博多にする代わりに市名を福岡に
してくれないか?と博多側に頼んだものの博多側は頑なに拒否、1889年に
公布されても、その年内で決められず翌1890年に持ち越され多数決で決める、
ということになったのですが、当時は博多の方が人口が多く議員数も福岡側が
13人なのに対し、博多側が17人で博多側が優勢、博多市に決まりかと思われました。

ところが肝心の投票日になって博多側の議員が4人欠席、議員数は13人ずつになり
投票も引き分け、旧福岡藩士だった議長が福岡に一票を投じた事により市名は
福岡市に決まった、というのが真の経緯のようです。

博多側議員を軟禁した福岡藩士の集う玄洋社


ところが↓の福岡市の行政ホームページをみると博多側議員が欠席したのは

トイレに軟禁された、という書き込みがあります。では誰に軟禁されたのか?
それについてはこの知恵袋の過去問にあり、「玄洋社」の人達だそうです。
ではその「玄洋社」とはどんな人達なのか?ウィキによると
旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年(明治14年)に結成された政治団体で
主な活動として大隈重信爆殺未遂事件を起こすなど過激な行動に出る事もあり
GHQも「日本の政治団体で最も気違いじみた一派」として戦後解散させたそうです。

福岡側の陰謀だったわけですが、このころからすでに福岡では広島も真っ青
市名をめぐる「仁義無き戦い」が繰り広げられてきたわけですね。


本当に軟禁されたのか?


しかし私としては軟禁は本当にあったのか?首を傾げてしまいます。その理由として
玄洋社は同じアジア主義を貫く海外運動家に援助を惜しまないくらい経済力はあった
ようで、豊潤な資金を博多側の議員4名に投票に出席しない事を理由に渡した、つまり
賄賂じみた行為で欠席させたのではないか?とも考えます。金をやる、と言われれば
博多は商人の町だけあって博多側議員も簡単にひれ伏すと思います。

玄洋社の強かな所は全ての博多側議員に渡すのではなく、自分達が勝てる必要最低限
の議員だけに矛先を向けた事でしょう。投票する前に計画的だったと思われます。しかし
いずれにしても気分の良い話ではなく福岡の汚点の一つかと思われてなりません。

今回の広福教訓

主張を曲げなさすぎると、とんでもない事になりかねない。妥協もほどほどに。