広福女王♥仙台334の広福菜根譚その52
今でも日本人に人気があるマーガレット・ミッチェル作「風と共に去りぬ」
アメリカ南北戦争とその後の負けた南部の戦後再建期を舞台に男女の恋愛をも描いた
大河小説「風と共に去りぬ」。1936年発刊後、たちまちにしてベストセラーになり、わずか
3年後、天然カラー映画として公開、数々の賞を総なめにしました。日本でも太平洋戦争
終結後の1952年に公開され、たちまち大ヒットになり、1966年には帝国劇場で世界初の
舞台化、後にミュージカルも出来、イギリスやアメリカに逆輸入するなど、日本でも大変
人気があり、以後、宝塚歌劇や東宝ミュージカル化もされ、本場アメリカよりも日本人は
風と共に去りぬが愛されてるのではないか?と言われているほどです。
ではなぜ、他所の国である日本人に「風と共に去りぬ」は愛されてるのでしょうか?
アメリカ南北戦争と戊辰戦争の関係性と相似
アメリカ南北戦争は大量の黒人奴隷を酷使しながらプランテーションで巨万の富を築き
貴族的生活を謳歌するアメリカ南部と商工業で経済発展の盛んなアメリカ北部との間で
自由貿易と保護貿易の利害、州別権利か中央集権か、などによる対立が激化し、
共和党のリンカーンが1860年に大統領に選ばれると、その年のクリスマスにサウス
カロライナ州が合衆国から脱退したのをきっかけに翌1861年にジョージア州など他の
アメリカ南部州が次々と合衆国から脱退し、Confederate states of America、CSA、
アメリカ南部連合国を結成して、それを認めないアメリカ合衆国との間で戦いが始まり
南北戦争が起こりました。この戦争は初めは長くても一ヶ月で終わるだろう、と殆どの
人が思っていましたが結果的に足掛け4年に渡り、南北両軍で死者が50万とも60万
とも言われる大惨事となり、殆どが戦場となったアメリカ南部では子孫3代食うに困らぬ
綿花王国だったのが子孫3代貧困に喘ぐ貧しい社会へと変貌してしまいました。
一方の日本でも南北戦争が終結して徳川将軍家を守り立てる会津藩、長岡藩などが
奥羽越列藩同盟を結成して徳川将軍家に味方する幕府軍の主力となり、天皇中心の
新政府を築こうとする薩摩や長州の両藩を筆頭とする新政府軍との間で1868年、戦争
が起こりました。この年の干支がつちのえたつ-戊辰の年だったので戊辰戦争
と言うのですが、これは去年の大河ドラマ、八重の桜でも取り上げられていたので
記憶に新しいと思います。結果は薩長中心の新政府軍の勝利となり、八重ら会津藩を
初めとする奥羽列藩などの幕府側の人間は郷里を離れ寒冷の地に飛ばされたり、
上京しても高位高官に取り立てられないなど不遇な身におかれ、その様は南北戦争の
敗者である南部連合の人々と酷似したものだったようです。
南北戦争は大量の戦死傷者を出したのと同時に南北ともに大量の戦費がかかりました。
南部は綿花のお得意さんであるイギリスに戦費公債を肩代わりしてもらいましたが
北部は無借金で南北戦争を戦い、勝利した後には南軍が海外から借りた戦費の公債を
肩代わりして支払い、さらにアラスカをも買収して領土としている!一体どうやって
工面したのか疑問に思ってましたが、実はそれに日本が深く関わっていたのです。
1850年代当時、世界の相場ではメキシコ銀貨4枚で金貨一枚と変換でした。ところが
日本ではメキシコ銀貨一枚と、一分銀四枚が等価で、一分銀四枚と慶長小判一枚が
等価です。とどのつまり、メキシコ銀貨一内と慶長小判一枚が等価になるのです。
その慶長小判一枚を香港に持っていくとメキシコ銀貨が4枚と交換してくれる。
つまり、メキシコ銀貨1枚が日本と香港を経由すると4倍に増えるという事です!!
これを知った米外交官のハリスは大いに喜び1854年に日米和親条約を結んだのです
が、その細約である下田条約で日本でとても金が安い事を良い事に金銀両替相場を
固定した結果、日本と香港を行き来するだけで巨万どころか億兆より上の京単位の
莫大な富を手にし、これが北部の南北戦争での戦費になったのです。つまりは北部は
黄金の国であったジパング日本の金を香港に持ち運び、南北戦争の戦費、そして
アラスカの買収費にあてがったのです。北部に金を奪い尽くされた日本にハリスは
金が足らなくて小判ができないなら、小判の中の金の含有量を減らしてでも小判を
発行せよと、ものすごい剣幕で幕府に迫りました。圧力に屈した幕府は、見た目が
同じで含有金量が慶長小判の約八分の一しかない万延小判を鋳造します。
これが万延小判で、南北戦争勃発一年前の万延元(1860)年の出来事でした。
これが万延小判で、南北戦争勃発一年前の万延元(1860)年の出来事でした。
そして5年後に南北戦争が終わると余った兵器を戊辰戦争が始まろうとする日本に
フランス経由で幕府軍に、イギリス経由で新政府軍に売りつけ再度日本から莫大な
金銭を奪う行動をしている。アメリカ南北戦争は綿花王国アメリカ南部だけでなく
黄金王国だった日本の巨万の富すら奪った戦争だったのです。
アメリカ南北戦争と日米太平洋戦争の相似
アメリカ南北戦争から80年後、今度は中国と戦争をしていた日本がアメリカのハワイ、
真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発し、日本はこの奇襲には成功するものの、瞬く間
に戦況は不利になり、1944年の後半になると日本本土も空襲を受けるようになり、
1945年に入ると大量の死傷者を出す大空襲が頻発、そして広島と長崎に原爆が
投下され、8月15日に日本の敗戦で太平洋戦争が終わるのと同時に第二次世界大戦
も終わりました。日本は軍人一般市民あわせ300万人もの死者を出しましたが、一般
市民の死者80万の大半は東京大空襲、沖縄戦、広島と長崎の原爆投下で占められる
そうですが、非戦闘員へ攻撃するのは戦争のルール違反ともいうべきものです。
では、この非戦闘員への攻撃はいつの頃から始まったのか?というと実はその80年前
の南北戦争でした。
南北戦争は最初は南軍と北軍のぶつかり合いで非戦闘員が巻き込まれる事は殆ど
なかったそうですが、戦争の激烈化で一般市民も巻き込まれるようになりました。
しかし当初はやむなく戦争に巻き込まれる、という感じだったのですが北軍のシャーマン
将軍は戦争を早く済ませるためにはただ単に敵軍を倒すだけでは駄目で、敵軍を背後
に支える一般市民への攻撃も不可欠と考えるようになり、総司令官になった戦友の
グラント将軍に南軍の盟主となっているジョージア州や南北カロライナ州を破壊進撃
してグラント将軍が戦うバージニア州で合流する作戦を投げかけます。グラントも当初、
南軍の壊滅だけを考慮し反対したものの結局、承諾する事になりました。1864年5月、
シャーマン将軍はテネシー州チャタヌーガを出発しジョージア州に入り、多大な犠牲を
増やす正面衝突を避け迂回しながら南部の心臓部となっているアトランタを目指し、
9月2日にアトランタを陥落、11月15日に北上する南軍を追わず、480キロ南東の
港町サバンナにむけて幅50~100キロにわたる破壊進撃を敢行しました。
これが海への進軍と呼ばれる有名な破壊行進で、風と共に去りぬの「風」の正体です。
ジョージア州の主要中心部はクリスマスのサバンナ陥落まで徹底的に破壊され、
無力化し、翌1865年に入るとサバンナ川を渡り脱退指導州のサウスカロライナに入り
ジョージア以上に破壊を徹底的に行い、ノースカロライナに入り終戦を迎えました。
このジョージアやサウスカロライナでの破壊行動及び一般市民への略奪、攻撃は
太平洋戦争の東京大空襲を始めとする絨毯爆撃や及び広島や長崎への原爆投下
と重なっていますが、実は他にも南北戦争と太平洋戦争の重複要素があります。
それどころか、アメリカの視点で見ると、太平洋戦争の経緯はアメリカ南北戦争
とも非常によく似ているのがわかります。それを挙げてみますと・・・。
①経済封鎖
南北戦争では北軍は海軍力でアメリカ南部沿岸、後にミシシッピ川をも完全封鎖、
北軍は工業力と香港経由で日本の金が基の経済力をバックに優位に戦争を進めた。
太平洋戦争ではアメリカを中心とする連合国は、日本の海外資産を凍結し、石油の
禁輸などの経済封鎖を行った。アメリカは、日本とは比較にならない工業力・経済力
をバックに圧倒的優位に戦争を進めた。
②兵站線の寸断
南北戦争では北軍は占領下の南部の鉄道網や橋を破壊し、使用不能にさせた。
太平洋戦争ではアメリカ軍は日本軍の輸送船を徹底的に攻撃した。
広大な太平洋での輸送船の発見は困難なはずだが、暗号解読でそれを可能にした。
③捕虜への虐待と戦争犯罪の裁判
南北戦争では南軍はジョージア州のアンダーソンヴィル捕虜収容所で、北軍の捕虜
13,000人が餓死または病死させた。北軍は報復としてイリノイ州のロックアイランド
捕虜収容所の南軍捕虜に衣食があっても渡さない報復処置を敢行した。終戦後、
「捕虜虐待」の罪で、アンダーソンヴィル捕虜収容所の責任者を裁判にかけた。
太平洋戦争では日中戦争からの中国はもとよりインドシナ半島やフィリピンなど
アジア各地で日本軍の「捕虜虐待事件」があった。また、シベリア抑留では日本兵が
虐待された。アメリカは終戦後、「捕虜虐待」の罪で、A・B・C級戦犯と称される戦争
責任者を裁判にかけた。
④敗戦国の改革
南北戦争で勝った北軍=連邦政府は、負けた南軍=旧南部連合国に幾つかの
占領軍管轄を置き、憲法を改正して奴隷制度を廃止した。これによって、南部の
貴族的文化社会・経済構造は抜本的な変革を迫られた。
太平洋戦争で勝ったアメリカ軍は負けた日本に幾つかの占領軍管轄を置き、財閥の
解体、農地改革による地主制度廃止、華族制度廃止、教育制度改革など社会の
仕組みを根本から変える変革を実施した。
こうしてみると、太平洋戦争で典型的にみられた事象がアメリカ南北戦争で予告的に
起こっていたと見えます。もしくは南北戦争における北軍=連邦政府の行動
パターンを、80年後の太平洋戦争とその戦後処理でアメリカ軍=アメリカ政府
が繰り返したとも言い換える事が出来ると思います。日本は幕末まで沢山あった
黄金をアメリカに奪われて南北戦争の原動力とされ、その戦争の使い古しの兵器を
戊辰戦争で買わされてさらにアメリカに富を与え、ついには80年後、そのアメリカの
手により絨毯爆撃ついには原爆まで落とされる、正にアメリカに振り回され、踏んだり
蹴ったりの思いをしたとも言える事ができると思います。
風と共に去りぬは日本人にとっても太平洋戦争の回顧録小説
太平洋戦争終戦後の7年後、1952年に風と共に去りぬの映画が日本でも初上映
されましたが当時はかなりの高額料金にも拘らず東京のスカラ座などでは行列が
絶えなかったそうです。私も最初は分かりませんでしたが以上、アメリカ南北戦争が
戊辰戦争や太平洋戦争との共通項をみると当時の日本人の気持ちがよく分かる
ような気がしました。1952年当時の日本人からみれば、南北戦争勃発の1861年
から北部の占領政策が終わる1873年の風と共に去りぬの時代背景は太平洋戦争
勃発の1941年から戦後復興期を終えようとしている1952年当時の日本を回顧する
ようで、とても他人事ではなかったのでしょう。何度もの舞台化についてはすでに
述べたので割愛しますがテレビでも最高の昼ドラと称された1988年の華の嵐や、
その姉妹作品である1989年の夏の嵐は、風と共に去りぬをモチーフにしています。
太平洋戦争や戊辰戦争の記憶がある限り、アメリカ南北戦争を背景にしたこの小説も
時代に変わる事なく愛され続ける事だろうと思うし、今後の日米関係に役立てられる
のなら、いいだろうと思っています。