安政の大地震の江戸の被害は、
小石川では降慶橋の手前から最初に火の手が上がり、江戸川方面の武家屋敷が見る間に炎に包まれてしまい、
谷中天王寺の五重の塔は、9輪ばかりが折れ落ちて、上野東叡山の大仏は首を落としていて、不忍池の石橋は崩れ、境内の茶屋はことごとく焼亡して、御成街道の諸侯の屋敷は全て潰れて、淺草寺でも、馬道あたりから火が出て、十八寺院が町家ともに燃えてしまった。
田町、聖天町、山之宿から下瓦町、山川町、芝居三座のある猿若町から南北馬道、花川戸まで焼けてしまい、続けて廃墟のなかに残ったのは浅草寺本堂と、仁王門、風神雷神門の三つだけで、
その当時の歓楽街の吉原も、大門外の五十軒道の北側が、少し残っただけで焼亡してしまった。
川向うの向島から本所、深川にかけては、地盤が軟らかいせいか、家は全部というほど倒れ、山の手方面の被害は少なかったみたいだけど、江戸の町は、一夜で、ほぼ壊滅状態になってしまい、死人が多く出てしまった。
武江年表というものには、【・・・次々の振動を恐れて、貴人は庭中に席を設けてここに明かし、庶人は大路に畳を敷き、戸障子をもて四方を囲い、しばらくここに野宿し・・・町会所よい日々野宿の貧民へ、握り飯を与えられ、また御救いの小屋を所々に建てて養われる】と、記されているみたいです。
藤田東湖は、今で言う、水戸斉昭の秘書官長ぐらいの側用人だったけど、
水戸斉昭は幕府に対して、うるさく意見していて、その水戸斉昭を裏で支えていたのは藤田東湖だった。
西郷隆盛も、橋本左内(もう少し後で登場させます)も、この当時のほとんどの人材は、藤田東湖に感化していた。
その藤田東湖は、自分の命に変え、母を助けて、あっという間に死んでしまった。
この地震での死者数は20余万人にも達したみたいで、この時の遊楽外、𠮷原でも、約3千人の女性が亡くなったみたいで、記されているのは、【歌舞吹弾の最中、にわかに家鳴り震動して、たちどころに崩れかかり、うつばりくじけ、柱折れ、その物音雷霆(らいてい)よりもすさまじく、魂中天に飛び、恐怖周章して二階を下らんとすれば、はしごおどりて下る事ならず狼狽してころがり落つれば巨材そのうえに落ち重なりて五体をくじき、あるいはその間に挟まれて自在を得ず、叫べども助くる人無く叫べども答うる人無し、瞬目のうちに火起こりて、炎の勢い、その身に迫る、危うく、逃れたるも途方を失い、煙にむせびて道路に倒れ、息絶えるもあり】とあるみたいで、
この時の𠮷原の編笠茶屋の編笠が、その後、葬式の時の、野辺の送りの、かぶりもの、になったと言い伝えられるほどだったみたいです。
もしも、藤田東湖が生きていたら、この悲惨な状況で苦しむ人々を救うために何らかの大政策を考え、水戸斉昭に進言したのではないだろうか?、
水戸斉昭は、藤田東湖と戸田蓬軒の遺体は故郷の水戸で眠らそうと思い、水戸へ送るように命じた。
つづく。
小石川では降慶橋の手前から最初に火の手が上がり、江戸川方面の武家屋敷が見る間に炎に包まれてしまい、
谷中天王寺の五重の塔は、9輪ばかりが折れ落ちて、上野東叡山の大仏は首を落としていて、不忍池の石橋は崩れ、境内の茶屋はことごとく焼亡して、御成街道の諸侯の屋敷は全て潰れて、淺草寺でも、馬道あたりから火が出て、十八寺院が町家ともに燃えてしまった。
田町、聖天町、山之宿から下瓦町、山川町、芝居三座のある猿若町から南北馬道、花川戸まで焼けてしまい、続けて廃墟のなかに残ったのは浅草寺本堂と、仁王門、風神雷神門の三つだけで、
その当時の歓楽街の吉原も、大門外の五十軒道の北側が、少し残っただけで焼亡してしまった。
川向うの向島から本所、深川にかけては、地盤が軟らかいせいか、家は全部というほど倒れ、山の手方面の被害は少なかったみたいだけど、江戸の町は、一夜で、ほぼ壊滅状態になってしまい、死人が多く出てしまった。
武江年表というものには、【・・・次々の振動を恐れて、貴人は庭中に席を設けてここに明かし、庶人は大路に畳を敷き、戸障子をもて四方を囲い、しばらくここに野宿し・・・町会所よい日々野宿の貧民へ、握り飯を与えられ、また御救いの小屋を所々に建てて養われる】と、記されているみたいです。
藤田東湖は、今で言う、水戸斉昭の秘書官長ぐらいの側用人だったけど、
水戸斉昭は幕府に対して、うるさく意見していて、その水戸斉昭を裏で支えていたのは藤田東湖だった。
西郷隆盛も、橋本左内(もう少し後で登場させます)も、この当時のほとんどの人材は、藤田東湖に感化していた。
その藤田東湖は、自分の命に変え、母を助けて、あっという間に死んでしまった。
この地震での死者数は20余万人にも達したみたいで、この時の遊楽外、𠮷原でも、約3千人の女性が亡くなったみたいで、記されているのは、【歌舞吹弾の最中、にわかに家鳴り震動して、たちどころに崩れかかり、うつばりくじけ、柱折れ、その物音雷霆(らいてい)よりもすさまじく、魂中天に飛び、恐怖周章して二階を下らんとすれば、はしごおどりて下る事ならず狼狽してころがり落つれば巨材そのうえに落ち重なりて五体をくじき、あるいはその間に挟まれて自在を得ず、叫べども助くる人無く叫べども答うる人無し、瞬目のうちに火起こりて、炎の勢い、その身に迫る、危うく、逃れたるも途方を失い、煙にむせびて道路に倒れ、息絶えるもあり】とあるみたいで、
この時の𠮷原の編笠茶屋の編笠が、その後、葬式の時の、野辺の送りの、かぶりもの、になったと言い伝えられるほどだったみたいです。
もしも、藤田東湖が生きていたら、この悲惨な状況で苦しむ人々を救うために何らかの大政策を考え、水戸斉昭に進言したのではないだろうか?、
水戸斉昭は、藤田東湖と戸田蓬軒の遺体は故郷の水戸で眠らそうと思い、水戸へ送るように命じた。
つづく。