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■「米の軍事政策もかかわる」
ビートルズの曲が流れ、団塊の世代がヘルメットにゲバ棒で政府や大学に抗議して、バリケードを築いたあの時代、各大学の紛争のなかでも日本大学での闘争が最も劇的で、社会を最も激しく広く揺さぶったといえるだろう。マンモスと呼ばれた日大はなにしろ規模が巨大だった。
私は日大闘争には新聞記者として裏と表からかかわった。1968年春、警視庁詰となった私は捜査2課の担当になった。汚職、横領、詐欺などの知能犯を取り締まる部門である。その捜査2課が日大の使途不明金の捜査をひそかに始めていた。この使途不明金こそ学生たちが大学当局への抗議を始めた最初の理由だった。
事件記者とも称された警視庁詰記者は、警察署まわり記者からは昇進であり、取材の方法も異なった。NHKのテレビドラマ「事件記者」が描いたかっこよいイメージとはほど遠く、捜査官の自宅を夜こっそり訪れて、情報をもらうことが最大の作業だった。
新聞各社のスクープ争いはものすごかった。警視庁が扱う事件も当時はいまよりずっと大きく、紙面でも大見出しの1面記事となった。だから自社だけの特ダネを求める圧力は強く、他社に抜かれたときの糾弾は酷だった。
私が所属した毎日新聞では記者10人ほどを警視庁に常時、おいていた。佐々木叶キャップ以下、捜査2課の担当は白根邦男、今吉賢一郎両記者の下に私が入り計3人だった。このころ警視庁の事件報道ではサンケイ(現産経)新聞が福井惇キャップの下、強みを発揮していた。とくに捜査2課がらみでは鈴木隆敏記者らがスクープを放つことしきりだった。
自分の担当する部門でのまったく知らない話がサンケイの1面の大記事になっているのを朝のフトンの中でみて、自分の記者能力を全否定されたようなみじめな思いをよく味わわされた。そのころは自分が将来、サンケイ新聞に入ることはむろん想像もしなかったから、鈴木記者らをなんとも憎たらしく思ったものだった。
このころ日大では経済学部の富沢広会計課長が失踪(しっそう)していた。日大が脱税容疑で東京国税局の捜索を受け、その対策を赤坂の料亭で大学幹部と協議した後、忽然(こつぜん)と姿を消したのだ。日大経済学部は2億6千万円の使途不明金を出す経理不正を指摘され、富沢課長はそのカギを握るとされていた。
警視庁捜査2課はこの事件の捜査に着手し、まず富沢課長の行方を追っていた。
その追跡の作業を私たちは知って、取材を進めた。
捜査員は同課長が多額の公金を持って逃走し、渋谷の円山町で毎月、恋人と会い、ハイヤーを呼んで横浜まで戻っていた、というようなところまではつかんでいたが、タッチの差で後手にまわっていた。
この経理不正が日大闘争の発火点となった。学生たちは大学当局の脱税や使途不明金に抗議して、活動を始め、日大全共闘の結成へと進む。その過程では学内での建物封鎖や街頭でのデモにからんで暴力行動もあいついだ。「バリケード内の大衆団交」が叫ばれる季節だった。私は日大の不正経理事件の水面下の取材にあたりながら、この表での派手な衝突を追う報道陣にもよく加えられた。
68年9月4日未明、日大闘争のクライマックスのひとつとなった経済学部の占拠排除でも突然、自宅から呼び出され、現場に急行した。前夜、酒を飲んで寝ついたばかりの午前3時ごろの電話だった。西神田の現場では機動隊500人ほどが全共闘の占拠した経済学部一号館などに突入し、一気に排除するのを酒気のぷんぷんする体でみつめたものだった。
日大闘争も単に大学の不正をただすというだけの活動ではなかった。70年に延長される日米安保条約への反対運動でもあった。当時の全共闘リーダーのひとりは次のように回想している。
「70年安保闘争まで戦おうと思っていた。個別に日大闘争があるわけでなく、自民党政府、アメリカの軍事政策(ベトナム戦争、基地問題、沖縄問題)すべてがかかわっていると考えていたからである」
その意味では私の日大闘争体験も日米同盟反対運動へのユニークな角度からの関与だったといえよう。(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)
※この記事の著作権は引用元にあります
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私は日大闘争には新聞記者として裏と表からかかわった。1968年春、警視庁詰となった私は捜査2課の担当になった。汚職、横領、詐欺などの知能犯を取り締まる部門である。その捜査2課が日大の使途不明金の捜査をひそかに始めていた。この使途不明金こそ学生たちが大学当局への抗議を始めた最初の理由だった。
事件記者とも称された警視庁詰記者は、警察署まわり記者からは昇進であり、取材の方法も異なった。NHKのテレビドラマ「事件記者」が描いたかっこよいイメージとはほど遠く、捜査官の自宅を夜こっそり訪れて、情報をもらうことが最大の作業だった。
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私が所属した毎日新聞では記者10人ほどを警視庁に常時、おいていた。佐々木叶キャップ以下、捜査2課の担当は白根邦男、今吉賢一郎両記者の下に私が入り計3人だった。このころ警視庁の事件報道ではサンケイ(現産経)新聞が福井惇キャップの下、強みを発揮していた。とくに捜査2課がらみでは鈴木隆敏記者らがスクープを放つことしきりだった。
自分の担当する部門でのまったく知らない話がサンケイの1面の大記事になっているのを朝のフトンの中でみて、自分の記者能力を全否定されたようなみじめな思いをよく味わわされた。そのころは自分が将来、サンケイ新聞に入ることはむろん想像もしなかったから、鈴木記者らをなんとも憎たらしく思ったものだった。
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警視庁捜査2課はこの事件の捜査に着手し、まず富沢課長の行方を追っていた。
その追跡の作業を私たちは知って、取材を進めた。
捜査員は同課長が多額の公金を持って逃走し、渋谷の円山町で毎月、恋人と会い、ハイヤーを呼んで横浜まで戻っていた、というようなところまではつかんでいたが、タッチの差で後手にまわっていた。
この経理不正が日大闘争の発火点となった。学生たちは大学当局の脱税や使途不明金に抗議して、活動を始め、日大全共闘の結成へと進む。その過程では学内での建物封鎖や街頭でのデモにからんで暴力行動もあいついだ。「バリケード内の大衆団交」が叫ばれる季節だった。私は日大の不正経理事件の水面下の取材にあたりながら、この表での派手な衝突を追う報道陣にもよく加えられた。
68年9月4日未明、日大闘争のクライマックスのひとつとなった経済学部の占拠排除でも突然、自宅から呼び出され、現場に急行した。前夜、酒を飲んで寝ついたばかりの午前3時ごろの電話だった。西神田の現場では機動隊500人ほどが全共闘の占拠した経済学部一号館などに突入し、一気に排除するのを酒気のぷんぷんする体でみつめたものだった。
日大闘争も単に大学の不正をただすというだけの活動ではなかった。70年に延長される日米安保条約への反対運動でもあった。当時の全共闘リーダーのひとりは次のように回想している。
「70年安保闘争まで戦おうと思っていた。個別に日大闘争があるわけでなく、自民党政府、アメリカの軍事政策(ベトナム戦争、基地問題、沖縄問題)すべてがかかわっていると考えていたからである」
その意味では私の日大闘争体験も日米同盟反対運動へのユニークな角度からの関与だったといえよう。(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)
※この記事の著作権は引用元にあります
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