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甲子園通算59勝を達成し、一礼する智弁和歌山の高嶋仁監督=阪神甲子園球場で2010年3月23日、徳野仁子撮影
 「あの人がいなければ監督としての今の自分はない」。第82回センバツ大会第3日の23日、土砂降りの雨に見舞われた甲子園で春夏通算59勝の単独最多勝記録を作った智弁和歌山(和歌山)の高嶋仁監督(63)は言う。就任30年目。名将を導いたのは、昨年12月に80歳で肺炎で亡くなった学校法人智弁学園前理事長の藤田照清(てるきよ)さんだった。最多勝記録樹立を願い、死の間際に「(達成すれば)盛大なパーティーを」と遺言に残してくれた。その思いに触れ、高嶋監督は「あと10勝くらいせんと、やめられへん」と話す。【川平愛、田辺一城】

 日体大4年の時、智弁学園(奈良)のコーチに招かれた。野球好きの藤田さんに指導方法を巡り「よう怒られた」。契約を終えて故郷の長崎・五島に帰るつもりだったが、請われて残った。その後、兄弟校の智弁和歌山の野球部を「強くしてほしい」と求められた。転機となった。

 「優勝旗は2色ある」。94年センバツで初優勝を遂げたが、藤田さんは満足しない。躍起になり、97年夏の大会を制覇しても「1度ずつだけじゃなあ」。結果を残せない時期もあった。何度も辞意を固めたが認めてくれなかった。「歩いてこいや」。08年秋に不祥事で謹慎となった時も、辞表を出す前に四国遍路を勧められた。

 「センバツは出られそうか」。藤田さんは亡くなる前日も家族に聞いた。ひつぎには高嶋監督のユニホームが入れられた。

 この日の試合では雨の中、ベンチの前に立ち、試合を見つめ続けた。高岡商(富山)の最後の打者を遊ゴロに打ち取ると、声を上げて手をたたき、表情をゆるめた。完投した藤井健(つよし)投手(3年)からはウイニングボールを手渡された。「選手と一緒に苦労したからこそ勝ち続けられた」

 スタンドで見守った藤田さんの長男で現理事長の清司(きよし)さん(55)は「監督を我が子のように愛していたから、きっと天国で泣いてる」。高嶋監督はセンバツが終わったら墓前に報告する。試合後、「(藤田さんは)ご苦労さん、もう辞めていいよ、とは言わないと思う」と笑った。



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