艱難辛苦汝を珠にす | おばちゃん訪問看護師のつ・ぶ・や・き

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50を過ぎてなお、毎日バイクで駆け回り、わかりづらい社会保障制度や死生観について考えさせられる日々なのです。在宅看護ってエキサイティングで面白い!



しませんよ。



苦労したって珠玉の魂なんか手に入りません。


日本古来の考え方として、

『苦労は買ってでもしろ』

の言葉に象徴される様に、〜人生における苦労はすればするほど人間力を鍛え、磨き上げることができる〜、というのがありますがね。



前提条件が整っていなければ無理な話。



苦労や辛酸は被害者意識を育てます。

もうホントに『明日食べるものがない』と言うほど切羽詰まった状況なら、被害者になってる暇もないからたくましく這い上がれるのでしょうけれど、今の日本で本当にそんな状況に陥るのって、よっぽど背景に何かがなければそんなことにはならないですよ。



艱難辛苦が汝を珠玉にする場合、絶対に必要なのは『忍耐力』。ひたすらに歯を食いしばり、耐え難きを耐え、忍び難きを偲べる『精神力』が必要でしょうね。


私を含めて現代を生きる『現代人』には恐らく無理ではないかと思う。もちろん、時折は見かけますけども。すごい成功者と言えるほどの人物を。


『忍耐力』は敢えて鍛えなければ身につけることができない力。昔の日本では『忍耐力』は日常の中でしごく自然に且つ確実に躾けられてきたもの。


それは社会インフラから始まり、政治・行政などの制度や枠組みから、そもそもの民族意識みたいなものなどなど、背景が全く異なり、且つあからさまにその社会で生きるには『個』の『耐性』が必要不可欠だったからですよね。


今みたいに『人権‼️』て言えば『何とか活路が開けるかも』なんてことはなかったんですから。


そういった時代背景が良かったなどとは微塵も思いませんが『個の耐性』や『人間力』なんかを磨くには適していたのだろうなぁとは思います。



翻って今は、と言いますと、良くも悪くも制度は整い、人権意識は高くなり、同じ『苦労人』とは言え、一昔前のそれとは最低ラインは異なり、確実に底上げはされてますでしょ。


『人権』の名の下に、保護してもらえる割合は格段に増えました。


『いや、そんなことはない‼️』


と言う声も聞こえてきそうですが、極貧のシングルマザーを体験してる私が言うんだから多分そんなにとっ違ってはいないと思うよ。


何を基準に比較するかでま、ま、変わってくることもあるか知らんけど。



でもね、『忍耐力』って、やっぱり大事だよね、って思う。

取り敢えず基本的に耐える力があればそうそうパニックにならない。些細なことで騒いで更に自分でことを荒げてしまう様な状態は避けられる様に思いますよ。



そして、きっと賛否両論あるかもわかりませんが、人生における学びって恐らく辛かったことや苦しかったことや困り果てたことや行き詰まったことや追い詰められたこと、そんな負の状況を突破した時に振り返って『栄養になってた』と気づくもんではありませんかね。


楽しいことや幸せなことは確かに必要で、そんな状況がもたらしてくれる『正の感情』は来たる『苦労』を乗り越えるためのエネルギーになる。


幸せな状況とは目指す『目標』であり、そこから学べることって割と少ない、と思ってる。


だから忍耐する機会が乏しく、苦労に耐えられるだけの忍耐エネルギーを蓄えられない現代は、割と損なのかなとすら思う。



苦労や失敗は身体も心も辛くて苦しくて渦中にある時はとてもそんなふうには思えないけど、乗り越えた暁にはいわゆる『人間の器』はでかくでかくなってる。


だから今、苦しみの中にいる人は決して人のせいにせず、自分で受け止める強さを発揮して欲しいなと思っています。


ただ、人間は群れをなす生き物。1人では耐えられないのさ。誰かの苦労を一緒に背負うことは、それは余計なことだけど、もし身近に苦しんでいる人がいるならば、



『何もできないよ。何もできないけどそばに居る。ずっとそばに居る』


ことのメッセージを送ってあげて欲しい。


お金があろうとなかろうと、病気であろうとなかろうと、犯罪さえ犯してない限り、仲間意識を捨てないであげて欲しい。


その人はまさに類い稀なる『忍耐力』を必死になって発揮しているところだから。その『忍耐力』のエネルギーを細々でもいいから送り続けてあげて欲しい。


と、思う今日この頃。


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