その「鏡」珍妙なる鏡。あらゆる物体は何も写さない。しかし、人間の「発言」と「行動」には反応す。誰かが何かを発言したり、行動をする。そこへこの鏡をかざすと、瞬時にそれが「正」か「邪」かを判断する。しかし、この様な「速い判断」というのは「正確さ」に欠けるきらいがある。どうしても「独断」に陥りがちだ。そこで「ダブルチェック」を兼ねて、鏡の後ろに控える「聖者」による「遅くて深い判断」を仰ぐ。「巡視員」がパトロール。早速「おや?」と怪しげな発言や行動を発見。すかさず鏡をかざす。「ピカッ」と光り、「邪」と判断され、「これ、本当に邪だったら取り締まりの対象ね。」巡視員が「どうですか?聖者さま。」と聖者の「最終判断」を待つ。「うむ、よかろう。ではこの事例が邪になるのか熟考してみよう。」流石は聖者だ。浅はかな凡人とは違い、拙速な答えは出さない。「深く鑑みて、この言動にはそこまでの悪意は感じられない。いつも、どんな時でも常に四角四面、品行方正では息が詰まって堅苦しい。たまには汚い言葉を吐き、羽目を外した行動を取っても許されるであろう。よって、この事例を邪と判断するのは早計。」「早とちりってヤツですね?この鏡、やたら反応いいからすぐに飛び付く。だけど、精度が粗い。やっぱり『速い思考』だけで判断すると、冤罪だらけになるな。」何でもすぐに騒ぎ立てる人、居ますよね?その人たちとそっくりだ。「初動は大事だからな。まずは疑わしい物に反応するのは自然な事だ。それから精査し、問題ない物を除外していく。その時には遅い思考をいかんなく活用する事だ。だがな、本来正も邪も無いんだ。それは誰かの『主観』という名のフィルター越しに見るから『正』や『邪』がある様に感じてしまう。『中庸』という立場で見れば、そのどちらでもないという事が分かる。物事や物体というのはどの面から見るか?どの部分を切り取るか?の違いで同じ物がガラッと別物に化ける。」

「この世にある正と邪を素早く選り分ける鏡。しかし、その早すぎる判断ゆえ、勇み足多し。誤りも多し。粗くてそそっかしい。それを手堅く援護するのは悟りを開いた聖者なり。物事の奥の奥、深くから深くまでを見通す。物事の表面だけではなく、どこにも写らない背後や心中にまで考えを及ぼす。その鑑みは到底凡人には真似できない。一度邪と判断された物を覆し、正と判断された物にも訂正を入れる。正邪の鏡の中に聖者の鑑み、潜む。」今日もあなたに幸あれ。続く。